「センパイ! センパイったら、いつまで寝てるつもりなんスか!」
アルフォンドは後輩のニコラウスに揺り起こされ、ようやく目覚めた。まだぼんやりする頭のまま、口のヨダレを袖口で拭い、うーんと気持ちよく伸びをする。机に突っ伏していたせいで、前髪が額に貼りついていた。
「あぁ、よく寝た。終わったか、ニコラ」
そんなだらしない先輩の姿を見下ろして、ニコラウスはあきれた。図書室の外はもう日が暮れかかっており、ほとんどの生徒は寮に帰っているはずだ。今日は中間試験の最終日だったので、きっと今頃、思い思いに羽を伸ばしているに違いない。
「センパイ、ホントに試験サボったんスか?」
「俺にとって大事なのは、試験なんかより睡眠なんだよ」
寝起きの悪いアルフォンドは、いつもつきまとってくる後輩に居直った。
ニコラウスはニ学年下なのだが、わざわざアルフォンドのルームメートに名乗り出て、日頃からあれやこれやと世話を焼いてくれている弟みたいな存在だ。しかし、どうしてこんな落ちこぼれの自分に関わってくるのか、アルフォンドにはそんなニコラウスが理解できなかった。
「いいんスか? さすがに落第はマズイでしょう?」
「いいさ。いっそのこと退学にしてもらえれば最高だ」
アルフォンドはまだ眠いのか、しきりにあくびをしていた。投げやりなアルフォンドの態度に、ニコラウスは慌てる。
「そんなこと、学院側がさせませんよ! だってセンパイは史上初、金の精錬に成功した天才錬金術師じゃないですか!」
そのとおり。天下のアルフォンド・ファウストの名は、多くの錬金術師が長年の研究テーマとしている金の精製をわずか七歳で成し遂げてしまったことで広く知られていた。
あれから早十年。かつての神童にその面影は欠片もない。
「いつも言ってるだろ。あれはまぐれだったんだよ。ま・ぐ・れ・! だって、あれから金の精製は一度も成功しやしないし、今やパラケルスス錬成学院の単なる生徒にすぎないんだぜ。しかも、いつ落第するかわからない落ちこぼれなんだから」
「そんなことないっス! またいつかセンパイは金の精錬に成功するっス! 誰が何と言おうと、そう信じてるんスから!」
ニコラウスは敬愛するアルフォンドに向って興奮気味に喋った。段々と面倒臭くなってきたアルフォンドは、わかった、わかったと手に負えない崇拝者をなだめる。
「とにかく帰ろうぜ。明日から試験休みだ。課題も気にせずにたっぷりと寝ていられる」
「そうはいかないわ、アルフォンド・ファウスト」
帰りかけたアルフォンドであったが、それを待ち受ける女生徒がいた。図書室の入口で腕組みし、挑戦的な瞳を向けてくる。
彼女の名はリーゼロッテ・オイレンベルグ。アルフォンドと同じクラスで、しかも学年トップの才女だ。超がつくほどの美人なのだが、きれいな薔薇には棘が多い。
「なんだ、ロッテか」
アルフォンドはやにさがった顔つきになった。それに対し、リーゼロッテは柳眉を吊りあげる。
「あなたなんかに、気安く“ロッテ”と呼ばれたくないわ。私を呼ぶときは、ちゃんとリーゼロッテと言うのよ」
美しいブロンドの髪を揺らしながら、リーゼロッテはやって来た。隣りにいるニコラウスは、憧れのリーゼロッテを前にして魂を抜かれている。
「そう言うなって。俺とお前と仲じゃないか」
アルフォンドはあくまでも馴れ馴れしい。するとリーゼロッテに思い切りにらまれる。だが、敵もさる者、まったく意に介するつもりはないようだった。
「ところで何か用か? ひょっとして、俺とデートしたいとか?」
「ふざけないでちょうだい!」
「そうですよ、センパイ! リーゼロッテさんがそんなことするわけないでしょ!」
彼女にお熱のニコラウスが加勢した。
「何だよ、てっきり愛の告白かと」
「あ、あなたねえ!」
リーゼロッテはわずかに顔を赤らめ、今にも殴りかからんばかりに拳を作った。彼女にこんな態度を取る学院の生徒は他にいない。
「勝手な妄想も大概にして! 私はただフランク教授にあなたを捜してくるように頼まれただけよ!」
「教授に?」
用件については察しがついていた。アルフォンドは逃げたくなったが、教授からの信頼厚いリーゼロッテがいる限りは無理だろう。
「あなた、今日の中間試験もサボったでしょ! まったく、天才の名が聞いてあきれるわ!」
「だから、俺は天才なんかじゃ……」
「と・に・か・く、一緒に来てもらうわ。ニコラ君」
「ハイッ!」
「手伝ってくれるわよね?」
「もちろんですとも、リーゼロッテさん!」
「ニコラのヤロー、この裏切り者め……」
というようなわけで、アルフォンドは二人に挟まれて、フランク教授の部屋へ向かった。
三人がフランク教授の部屋の中へ通されると、そこには先客がいた。アルフォンドたちが初めて見る女性である。
「おっ、ようやく来たな」
学士肌の錬金術師というより、盗賊の親玉といった感じがするフランク教授は、カワイイ落ちこぼれの顔を見て破顔した。勉強には不真面目なアルフォンドも、山のように出される課題以外は、普段からこの教授のことを信頼している。
「お前たちに紹介しておこうか。こちらは昔の教え子で、リリィ・ゲーラー嬢だ。今のリーゼロッテみたいに、とても優秀だったんだぞ」
リリィと紹介された女は、アルフォンドたちに目礼した。きれいな女性だが、どことなく憂いのようなものが漂っている。
「で、こいつらはリーゼロッテとニコラウス、そしてアルフォンドだ」
「アルフォンド……」
最後にアルフォンドの名が出たとき、リリィの瞳が妖しく光ったような気がした。もっとも錬金術師であれば、その名に聞き覚えのない者はいないだろうが。
「早速だがアルフォンド、お前には明日から追試を受けてもらうぞ」
「ええっ! 採点も終わってないのに追試ですか!? それに明日から試験休みのはずじゃ!?」
「それはちゃんと試験を受けたヤツらの話だ。受けていないヤツが休んで何とする?」
「うっ!」
アルフォンドは反論できなかった。
「用件はそれだけだ。では、明日待っているぞ。逃げるなよ」
「はい……」
アルフォンドはガックリと肩を落とし、ニコラウスたちと一緒に退出した。
部屋に残ったリリィが、生徒たちが出てった扉を見つめながら恩師に尋ねた。
「彼があのアルフォンド・ファウスト……」
「そうだ」
「しかし、あれ以来、彼の名を聞きませんね」
「だろうな。ヤツは七歳で錬成を成功させて以来、金を作り出せていない。我々と同じようにな」
「単なる偶然だったのでしょうか?」
「リリィ、君も知っての通り、錬金術は偶然の産物だ。百回のうち九十九回失敗しようと、たった一回の成功が偉大な功績となる。そうだろう?」
「そのとおりです、教授」
「今は眠っているのかもしれんが、アルフォンドに素質があるのは間違いない。私が保証する。いつの日か、金はもちろん、不老長寿の薬も作り出すことができるかもしれん」
「錬金術師にとっての悲願ですわね」
そう呟くリリィの瞳は暗く翳っていた。
「おい、ニコラ。お前も風呂に入ってきたらどうだ?」
濡れた髪を乾かしながら、風呂上がりのアルフォンドは自分の部屋に戻った。
明日の追試を前にして、何の準備もしていないアルフォンドを見かね、自分が試験範囲を絞っておきます、と請け負ったニコラウスであったが、その姿はどこにもなかった。代わりに窓が開けっ放しで、吹き込む風が過去の試験問題などを散らかしていた。
「どこ行ったんだ、あいつ」
しょうがないので試験問題を片づけ始めたアルフォンドであったが、その手が不意に止まった。床板にナイフで縫い止められた一枚の紙きれを見つけたからだ。
『ルームメートは預かった。助けたければ、下の地図に記した場所へ来い。また、このことを誰かに言えば、ルームメートの命はないと思え。』
アルフォンドはその紙を引きちぎると、急いで着替え、二階の窓から外へ出た。全寮制のパラケルスス錬成学院では夜間外出が禁止されているが、そんなことは言ってていられない。
指定された場所はパラケルスス錬成学院からそれほど遠くない主都郊外にあった。目立たないが、貴族の別宅といった感じだ。アルフォンドはそっと近づいて中の様子を探ろうと思ったが、相手はこちらの動きに気付いていた。
突然、中から覆面をした男たちが数人飛び出してきた。剣を突き出し、アッという間にアルフォンドを取り囲む。アルフォンドは抵抗しない印に両手を上げた。
「友だち思いね、アルフォンド・ファウスト君」
「あ、アンタは!」
最後に屋敷から出てきたのは、夕方、フランク教授の部屋で会ったリリィ・ゲーラーだった。
「話は中へ入ってしましょうか」
アルフォンドはおとなしく従った。
リリィを先頭にして、アルフォンドは覆面の男たちに囲まれながら屋敷に入り、さらに地下へ下りた。階段を下りきると、そこは錬金術師にとっておなじみの実験室だった。
「ニコラはどこだ?」
アルフォンドは臆することなく尋ねた。
「無事よ。あなたが私の願いを聞いてくれれば、ちゃんと返すわ」
「願いだと?」
「ええ。金を錬成して欲しいの」
やはり。何となくリリィの要求は読めていた。
「アルフォンド・ファウスト。ただ一人、金の精製に成功した少年。あなたなら可能なはずよ」
「そんなことをしてどうする?」
「そんなことですって? あなた、ホントに錬金術師なの?」
リリィは疑わしげな目をアルフォンドに向けた。それを真っ向から、アルフォンドは睨み返す。
「金の錬成は錬金術師の夢。それを成し遂げた者には多大なる名誉が与えられるのよ」
「で、俺が作った金をアンタの手柄にするつもりか?」
「そうよ。そうすれば私は、リリィ・ゲーラーの名を歴史に残すことができる! 資金援助欲しさに、パトロンの顔色を窺わなくてもよくなるのよ!」
学院に在籍しないフリーランスの錬金術師たちは、研究のために多くの資金が必要になる。そのため、ほとんどの錬金術師は金持ちのパトロンを持っていた。しかし、パトロンたちも成果の出ない者にいつまでも出資するわけがなく、多くの錬金術師が路頭に迷っているのも現実であった。
「さあ、どうする? やるの? やらないの?」
リリィの背後には剣を持った男たちが立っていた。アルフォンドだけでどうにかできる状況ではない。それにニコラウスを人質に取られてしまっている。
「わかった、やるよ。ただし、錬成している間、この部屋に誰も入れないでくれ。気が散る」
「いいわよ。どうせ逃げられないのだし。では、よろしくね。アルフォンド君」
リリィはアルフォンドの条件をあっさりと飲むと、男たちと一緒に出て行った。
その三十分後、地下からリリィを呼ぶアルフォンドの声が届いた。
「おい、もうすぐ、できあがるぞ!」
「ずいぶんと早いわねえ」
リリィは怪しみながらも、覆面たちを連れて地下へ下りた。すると実験台の前にいたアルフォンドが振り返る。
「ほら、もうちょっとで反応が終わる。そうすれば完成だ」
アルフォンドが体をどけると、実験台の上には金色に輝くフラスコがあった。フラスコ内の液体は化学反応を起こし、激しく気泡を発していた。何より金色の液体という見たこともないものに、リリィたちは瞳を奪われた。
「すごいわ! こんなの見たこともない!」
全員が実験台のフラスコの前に集まった。そのスキにアルフォンドは実験台からそ〜っと離れた。
「ん?」
フラスコ内の化学反応に変化が生じた。金色が抜け落ち、無色になっていく。気泡がさらに増えた。
「アルフォンド、これは?」
リリィが尋ねようとしたとき、アルフォンドは扉から逃げようとしていたところだった。
「ヤバっ!」
「アルフォンド!」
そのとき、フラスコの液体が大音響とともに爆発を起こした。アルフォンドは爆発に巻き込まれないように急いで階段を駆け上がる。アルフォンドが作っていたのは金などではない。即席の液化爆弾だった。
アルフォンドは一階に出ると、シラミ潰しにニコラウスを捜した。
「どこだ、ニコラ!」
「センパ〜イ!」
蚊の鳴くような声が二階から聞こえてきた。
「ニコラ!」
「ここです、センパイ!」
二階の部屋のひとつからニコラウスの声がした。カギが掛っていたため、アルフォンドは扉に体当たりする。監禁部屋に選んだだけあって、かなり頑丈だったが、六回目にしてようやく扉を破った。
「ニコラ、助けに来たぞ!」
「センパイっ!」
心細かったのか、ニコラウスは今にも泣きそうだった。
アルフォンドはニコラウスを連れ、階段へ引き返した。ところが階下には、すでにリリィたちが待ちかまえていた。
「よくもやってくれたわね!」
ヒステリックに叫ぶリリィの顔は爆発のせいで煤けていた。どうやら重傷者はいないらしい。もうちょっと威力の高い爆弾を作るべきだったか、とアルフォンドは悔やんだ。
「あんなものを即席で作ってしまうなんて、さすがは天才と言うべきかしら? でも、ここまでよ」
万事休すかと思われたそのとき、いきなり屋敷の入口から突入してきた者たちがいた。衛兵だ。両者は衝突し、下はたちまち大騒ぎになる。どういう状況か把握できず、アルフォンドたちは階段の上で茫然とそれを眺めた。
「二人とも無事か!」
衛兵たちが悪党どもを鎮圧し、騒ぎが治まると、一階からフランク教授の声がした。なぜかリーゼロッテもいた。二人の無事な様子にフランク教授は安堵した。
「よかった、よかった! お前たちのことをリーゼロッテが知らせてくれたんだ」
そのリーゼロッテは少し気まずそうな顔をしていた。目を合わせられないのか、そっぽを向く。
「た、たまたま寮を抜け出すあなたを見かけたから、どんないかがわしい所へ行くのか尾行しただけよ。そしたら怪しい男たちに囲まれてこの屋敷へ入って行ったものだから」
「さすがはロッテ! そんなにも俺のことを気にかけてくれてたんだな!」
アルフォンドは両手を広げると、リーゼロッテを抱きしめようとした。その手からリーゼロッテは逃げる。
「バカ! たまたまよ! た・ま・た・ま・! それに何度も言ってるけど、ロッテって呼ばないでちょうだい!」
リーゼロッテの顔は、またもや赤くなっていた。
衛兵に逮捕されたリリィたちが連行されようとしていた。そこへ貴族らしい壮年の男が血相を変えて現れる。マントの留め具には公爵家の紋章がつけられていた。
「この屋敷の主、クレーメンス・リヒテンシュタインだ。これは何事ぞ!?」
「これはリヒテンシュタイン公。ご無沙汰しております」
「おお、フランク教授」
「実はリリィ・ゲーラーと彼女に雇われた男たちが、我が学院の生徒二名を誘拐、脅迫したのであります」
「なんたること!」
リヒテンシュタイン公は連行されようとしていたリリィをにらみつけた。リリィは蒼白になって唇を震わせる。
「貴様、この私の顔に泥を塗ってくれたな!」
「お、お許しください、公爵さま。全ては公爵さまのためにやったことで……」
「言い訳などいらぬ! 貴様の才能を見込み、こうして研究の場を与えてやったというのに、その恩をこのような形で返すとは!」
「申し訳ございません!」
「貴様の顔などもう見たくもないわ! 衛兵、そやつらを早く連れて行け!」
リリィは雷に打たれたようにうなだれて、衛兵たちに連行されていった。アルフォンドはそれを見送りながら、ニコラウスを人質にされた怒りはあったものの、彼女がどこか憐れに思えた。
公爵はアルフォンドたちに近づいた。アルフォンドたちがそれぞれ挨拶すると、公爵は穏やかな笑みを浮かべた。
「君のことは噂で聞いているよ、天才錬金術師のアルフォンド君。このたびはすまないことをしたね。私からも詫びさせてくれ」
「いえ、そんな……」
「そうだ! 学院を卒業したら私を訪ねたまえ! 私が君を援助してあげようじゃないか! 君が自由に研究できるよう、なんでもしてあげよう!」
そう申し出る公爵の顔が、アルフォンドにはとても醜いものに見えた。リリィ・ゲーラーもそうやって誘われたに違いない。しかし、行き詰った彼女は公爵から援助を打ち切られそうになり、切羽つまって今回のような犯罪に走ったのだ。全ては地位と名誉が人間を狂わせ、不幸を招いたに違いなかった。
「せっかくですが、お断りさせていただきます」
アルフォンドは公爵を殴りたい衝動をかろうじて抑え込んで言った。公爵は自分の誘いを断ったことが心外だったのか、露骨に渋面を作ったが、すぐに愛想よくうなずいた。
「そうか。まあ、気が変わったら、私はいつでもかまわないから。とにかく君には期待しているよ」
アルフォンドはつくづく錬金術師になることが嫌になった。たった一度の奇跡のせいで、多くの人間に特別視されることにうんざりする。自分はそんな人間ではないつもりだ。
「さあ、帰ろうぜ、ニコラ、ロッテ」
とにかく今は寮に帰り、ベッドの上に倒れ込みたい。それが、この十年後、史上最年少の若さで宮廷錬金術師となるアルフォンド・ファウストの今の願いであった。