夏休みが始まって早々の火曜日、オレは大地に学校へ呼び出された。
「おお、よく来たな、コータ。こっちだ」
昔から何事にも強引な幼なじみに文句を言いたかったが、大地はこちらのことなどお構いなしにどんどん歩いて行ってしまう。行き着いた先は学校のプールだった。
何のつもりかと、オレが更衣室で不審に思っていると、
「さあ、泳ぐぞ」
と、大地は制服を脱ぎ出した。あまりにいきなりな展開にオレはうろたえた。
「バーロー! 水泳部員のお前はともかく、帰宅部のオレが勝手にプールを使っていいわけ――」
「問題ない。顧問にはちゃんと許可を取ってある」
「いっ!? マジで?」
「マジだ」
大地はこともなげに言うと、鍛えられた肉体をさらした。さすがは水泳部のエース。体脂肪率10パーセントを切る、見事な逆三角形体型だ。しかも準備は万端、ズボンの下はすでに水着。いわゆる競泳用のブーメランパンツというヤツ。見ているこっちが恥ずかしくなるような姿だ。
「にしたって、オレは水着なんか――」
「ほれ」
持ってきてないことを見越して、大地はオレに水着を差し出した。しかも大地とお揃いのブーメラン……。
オレはオーストラリアに向かって投げ捨ててやろうかと思った。
「何だ、ちゃんと洗濯してあるぞ。失敬な。そういう汚らしいものを見るような目はよせ」
いくら幼なじみでも、海パンの貸し借りはしないと思うぞ、おい。
イヤイヤながらも、どうせこのまま帰してくれやしないのは分かり切っているので、仕方なく大地の水着を穿いてやることにした。うわぁ、何だ、これ。初めて穿くブーメラン水着は股間にギュッと食い込んで、圧迫感がハンパない。それでいて、あまり上まで上がらないので、ケツが見えてやしないかと気になってしょうがなかった。
「大地ィ、よくこんな恥ずかしいの穿いてられるよなぁ」
「慣れだよ、慣れ。何たって水の抵抗が少ないに越したことねえんだから」
「最近はレーサー何とかって、男もワンピースみたいなのだとか、ハーフパンツみたいなもんが主流なんじゃねえの?」
「そういうのは競技のときに穿く。今日はプライベートだから。ちなみに、レーザー・レーサーは今、禁止な。――ほら、行くぜ」
「プライベートで、この面積の小っちゃいヤツを選ぶとは……この露出狂め!」
まだブーメラン水着に違和感を持つオレは、ぎこちない歩き方のまま、強引にプールへ連れ出された。
外へ出ると、おだやかな水面が夏の日差しをキラキラと眩しいくらいに反射させていた。大地が言ったとおり、本当に貸し切り状態。オレたち以外に誰もいない。夏のプールは青春の定番かもしれんが、学校の、しかも野郎二人という色気も素っ気もないシチュエーションはいかがなものか。
「なあ、オレたちも来年には卒業だな」
入水前に、大地が準備運動をしながら何気ない話題を振ってきた。練習でもないのに、しっかりと準備運動をするところなど、さすがは水泳部員。マメだ。
「大地は東京の大学へ行って、水泳、続けんだろ?」
「ああ。オレの夢はオリンピックだからな。君が代が流れる中、左胸にこう手を当てて、聖火をじっと見つめる……。そんときはコータもテレビじゃなくて、会場まで見に来てくれよ。旅費も宿泊費も自前だが」
大地は超高校級スイマーとして、全国から注目されている。選考会次第だが、オリンピックというのも、あながち誇大妄想ではない。もっとも、メダリストになって、表彰台へ上がれるかどうかは別だし、水泳の競技場から聖火が見えるかどうかも疑問だけど。
「瑞希も名古屋の大学にするって言ってたぜ。コータ、お前はどうすんだ?」
大地から瑞希の進路のことをいきなり聞かされて、オレは動揺した。そうか、瑞希は名古屋へ行くのか。初めて知った。
「どうするもこうするも、オレはどっか地元の大学に潜りこむさ。まだ、自分が何になりたいとか、そういうのもねえし」
そう答えながら、オレは卒業したら三人はバラバラになるんだな、とさみしく感じていた。
オレと大地、それに瑞希の三人は、小っちゃい頃からの幼なじみだ。幼稚園から高校までずっと一緒で、昔はよく三人で遊んだ。最近はクラスも違うし、大地と瑞希は部活も忙しいからすれ違いも多いが、オレにとって親友と呼べるのは彼と彼女だけだろう。
瑞希も水泳選手だ。こちらは大地と違い、代表まちがいなしでメダル候補。テレビCMこそないが、その実力と美少女ぶりから、今や国民的アイドルのような扱いだ。幼なじみとして誇らしいし、もちろん応援もしている。
大地はそんな瑞希とは雲泥の差のオレを冷やかな目で見つめていた。
「お前、もうちょっとしっかりしろよ。そんなんじゃ心配で、オレ、東京へ行けねえぞ」
「バーロー! お前はオレの保護者か? 行けよ、行け、行け。オレのことなんかほっとけってば。どうせ、オレは大地や瑞穂とは違うんだから」
自分で自虐的に言ってから、自己嫌悪を覚える。ダメだ、完全に自分を卑下してしまっている。
「コータ、お前なぁ!」
オレの態度は大地を怒らせたようだった。オレはハッとして謝る。
「すまん。別にお前たちのことをうらやんでいるとか、そういうことじゃねえから。オレが悪いんだ」
オレが反省を口にすると、大地は振り上げかけた拳を止めた。歯を食いしばって必死に怒りを押さえ込もうとしているのが分かる。オレは大地に殴られるべきだったのかもしれない。
感情をうまく制御した大地は、準備運動を終えるとゴーグルをつけた。
「おい、コータ! 勝負だ!」
「はぁ!?」
いきなりの青春ドラマっぽい展開にオレはついていけなかった。
「行って返っての五十メートル勝負! オレはバタフライで泳ぐ! お前はクロールでも何でも好きにしろ!」
「大地、何言ってんだよ? いくらバタフライとクロールの勝負ったって、水泳部のお前にオレが勝てるわけねえだろ!」
「じゃあ、瑞希はオレがもらう。それでいいんだな?」
唐突過ぎる大地の言葉に、オレは呼吸が止まりそうになった。大地が瑞希を……?
「ちょ、ちょっと待て、大地ィ! お前、この間、天使すぎる後輩の女子に告白されちゃったとかって浮かれてなかったか?」
「なっ! あー、あれは過去のことだ……忘れろ……」
オレの視線から顔を背けて、大地は悲しげに言った。どうやら早くもフラれたらしい。ひょっとして、その露出趣味が原因じゃねえの。やれやれ。
「お前なあ、そっから瑞希に乗り換えるって、ちょっと安直すぎるだろ!」
「うるさいなぁ! 瑞希のことは昔から好きだったんだよ! お前だってそうだろ?」
「ばっ、バーロー! おおお、オレと瑞希はただの幼なじみであってだなぁ――」
図星を刺された。自分の顔が熱中症にかかったみたいに赤くなったのが分かる。
「おうおう、うろたえちゃって、相変わらずの純情童貞少年だなぁ。さあ、どうする? この勝負、受けるのか、受けねえのか」
「だから、お前と競争したって――」
「分かんねえぜ。水泳を始めた頃は、三人の中でお前が一番速かったんだから」
「それは十年以上も前の話だろーが!」
「……あのとき、あのケガさえなけりゃ、お前もオレたちと一緒に水泳を続けてたのかもしんねえな」
「大地……」
オレの背中には大きな傷がある。昔、小学二年の頃、坂道で自転車に突っ込まれ、大ケガを負ったのだ。あれからしばらく、オレは身体を動かすことが出来なかった。今は日常生活に何ら支障もないが、それ以来、オレは水泳選手として成長していく大地と瑞希から距離を置いて、活発に運動することがなくなった。
「瑞希が水泳選手になろうと思ったのも、あの事故があったからだ。あいつはな、コータ。お前の分も泳ごうと、今でも必死に頑張っているだよ」
「よせ」
オレがケガをしたとき、大地も瑞希も一緒だった。オレは自転車の気配に気づき、二人を守ろうとしてケガをしたのだ。そのことに瑞希が何ら責任を感じる必要はない。オレが勝手に二人をかばっただけだ。もしあのとき、そうしていなかったら、ケガをしたのは瑞希たちだったかもしれないんだから。
どうやらオレのことで、長年、二人の幼なじみには負い目を感じさせていたようだ。あれから十年だというのに、オレは今さらながら気がついた。てっきり、二人はもう自分の道を歩んでいるものと思っていたけれど。
「で、勝負、どうするよ? 不戦敗か?」
大地が、もう一度、尋ねてきた。オレは返事代わりにスタート台に上がった。
「分かった。やろう」
これは大地なりの過去との決別なのだろうと思った。ならばこの勝負、受けてやらないわけにはいかない。もうオレたちには、一緒にいられる時間が残り少ないのだから。
「じゃあ、誰も合図する人間がいねえから、勝手にカウントするぜ。――スタート五秒前、四、三、二、一……ッ!」
オレはスタート台を蹴った。水泳は学校の授業以来だ。最初の飛び込みは自分でもまずまずだったと思う。
しかし、素人のオレは一流スイマーのようにスタート直後の潜行はできない。マネをしたところで、ムダにスピードを落とすだけだろう。オレはすぐに浮かび上がると、がむしゃらにクロールで水を掻いた。
一方、隣のコースをきれいに潜行泳法で入った大地は、水面に浮上したとき、すでにオレより体半分リードしていた。さすがはオリンピック代表候補も夢じゃない男。オレとの力の差は歴然だ。
大地は得意のバタフライを開始した。こっちはクロールなのに、それを上回るスピードだ。オレはバタフライで泳ぐことは出来ないが、大地の泳ぎはまるでトビウオのようである。隣で泳いでいて圧倒された。
二十五メートルの折り返し地点。オレがまだあと五メートル残っているというのに、大地はもうターンしてきた。速い。このままでは負ける。――いや、そんなことは最初から分かっていたことだ。ただ、大地を相手に全力で泳ぐだけ。それが今、オレに出来る唯一のこと。
ところが、オレもターンを終えて少しでも追いすがろうとしたところ、ハプニングが襲った。右足がつったのだ。準備運動を怠ったせいか、はたまた日頃の運動不足が祟ったか。とにかく、下半身の推進力を失ったオレは急激に沈んだ。
「うわっぷ!」
沈んだ拍子に水も飲んだ。パニックになる。焦れば焦るほど、身体が浮かばない。オレは水の中でジタバタもがいた。ヤバい、溺れる……。
無我夢中でつっていない左足でプールの底を蹴った。水の上に顔を出す。口が酸素を求めた。
「うーっ、ゲホッ、ゲホッ! うげーっ、ゲホッ、ぐぉっほっ!」
涙目になりつつ、オレはプールサイドまで泳ぎ着いた。重い身体をかろうじて持ち上げる。
「はあっ、はあっ、あーっ、死ぬかと思ったぁ……」
オレは仰向けになって、大きく胸を上下させた。久しぶりに泳いだら、足がつって溺れるとは我ながら情けない。
そんなオレを心配そうに覗き込む顔があった。
「大丈夫?」
そうオレに声をかけてきたのは大地ではなかった。目を開けると水着姿の子供が三人。幼い男の子が二人と女の子が一人だ。オレは慌てて上半身を起こした。
「あれっ?」
そこは、ついさっきまでオレがいた学校のプールではなかった。プールには違いないが、オレの高校とは別の場所。しかも子供たちの他に、いるはずの大地の姿がなかった。
「ここは……?」
まったく知らない場所というわけでもなかった。どこか見覚えがある。
一方、子供たちもオレに対して戸惑っている様子だった。
「お兄さん、どこの人?」
「どうやって入ったの?」
「学校の先生じゃないよね?」
子供たちから質問されているうちに、オレははたと気づいた。見憶えがあるのも道理、ここはオレが通っていた小学校のプールじゃないか。
改めて子供たちを見て、オレはまたビックリした。子供たちの水着に縫われた名前。いずれも「2ねん2くみ」で、「だいち」と「みずき」、そして「コータ」とあった。
よく見れば、三人は小っちゃい頃のオレらだった。これは夢でも見ているのだろうか。それともSFみたいに、十年前にタイムスリップでもしたと言うのだろうか。
「おい、どうする? こいつのこと、先生に知らせた方がよくね?」
オレのことを怪しんでいる小学二年の大地が、他の二人に相談した。
「えっ? 今はマズくねぇ?」
「そうだよ。私たちのこともバレちゃうし」
どうやら、三人は白昼大胆にも、無許可で小学校のプールに忍び込んだようだった。そう言えば、そんなこともあったような気がする。
「でも、変質者とかだったらどうする? こいつのパンツ、ヤケに小っちゃいし」
大地がこれ見よがしに言った。バーロー、十年後、このブーメランを身につけて悦んでるのはてめえだよ。
オレは咳払いした。
「あー、心配することはない。こう見えても、オレはこの学校の卒業生なんだ」
「卒業生?」
これで少しは三人の警戒心も緩んだようだった。オレも先生を呼ばれたら困るし。そもそも、何て説明したらいい?
「それより、お前たちこそ、ここで何してんだ?」
「特訓だよ」
「特訓?」
「瑞希が泳げないからさ。夏休み終わるまでには泳げるようになろうって」
そうだった。泳げるようになったのは、三人の中で瑞希が最後だった。メダル候補と言われている今からしたら信じられない話だが。
「何なら、オレが教えてやろうか?」
まだこちらを警戒している瑞希に、オレは優しく声をかけた。この頃の瑞希は、オレたちと並ぶと男の子とあまり変わりがなかったが、年上を前にしておずおずとしているところは女の子らしくてカワイイ。
「出来んの? だって、さっき溺れてたじゃん」
昔のオレがずばり指摘してきた。クソッ、こっちは可愛げがねえな。
「さっきはちょっと足がつっただけだよ。ほら、見てろよ」
オレは証明してみせるため、再びプールに飛び込んだ。ゆっくりとクロールで泳いでみせてやる。どうよ、この雄大なフォーム。
「バーロー、オレだって泳げるよ!」
高校生のオレと張り合うように、小っちゃい頃のオレもプールに飛び込んできた。大地もそれに続く。しかし、小学生ごときに十歳も上のオレが負けるはずがない。大差で二十五メートルを泳ぎ切ってやった。
「どうだ? ちゃんと泳げただろ? ――さあ、おいで。お兄さんが教えてやるから」
オレは大人げなく二人の小学生に勝ち誇ると、瑞希に手を差し伸べた。少しためらう様子を見せた瑞希だったが、やがてそろりとプールの中へ入ってきた。
「じゃあ、手を出して。まずは顔を水の中につけて、目を開けられるかな? 大丈夫、手はちゃんと握ってあげてるから。やってごらん」
瑞希はオレの言うとおりに練習を開始した。水に慣れたら、今度は手を引いてやりながらバタ足の練習。それができたら、補助をつけたままバタ足をし、顔を水につけたり上げたりの呼吸の仕方を教えてやった。
物覚えの早い瑞希は、一時間足らずの練習でほぼ泳げるようになった。これもオレの指導の賜物、と思っておくことにする。ここから未来のメダリスト候補が誕生しようとは誰も知らないだろう。
「おーい、コータ。そろそろ時間だぞ」
時計を見た大地がもう一人のオレを呼んだ。小っちゃいオレは急いでプールから上がった。
「おう、分かってる。――瑞希、行くぞ」
呼ばれた瑞希はコクンとうなずいた。
「帰るのか?」
「今夜、花火大会だから」
「ああ、そうか」
まだ日は高いが、どうせ混んでいる会場への移動には早い方がいい。三人は濡れた足跡をつけながらプールサイドを走った。
「帰り道、気をつけろよ。特に坂道では横に広がって歩くな。後ろから自転車とかが来て、危ないから」
オレは何となく事故の記憶を思い出して言った。
「ありがとう」
更衣室へ消える寸前、瑞希だけが振り返って、オレに礼を言った。そのはにかんだ表情に、オレはキュンとしてしまう。コラコラ、あれは瑞希だけど、まだ小学生なんだぞ。
一人残されたプールから、賑やかな子供たちの声が遠ざかっていった。それとともに耳へよみがえってくる蝉しぐれ。ああ、夏休みだったんだな、と今さらながらに実感する。
さて、これからオレはどうしたものか。ここから出ようにも、着替えもないブーメランパンツ一丁で外を出歩こうものなら、すぐに警察が飛んできそうだ。いや、それより何より、ここは十年前の過去なのだ。どうやって元いた現代に帰れるというのだろう。
「おい、誰かいるのか?」
突然、野太い声がして、オレは飛び上がりそうになった。きっと学校の先生だ。見回り中にプールが使用されていると気づいたのだろう。やべぇ、どうしよう。
オレはとっさにプールへ飛びこんだ。隠れるならここしかないと思ったのだ。
ところが、あまりにも焦っていたせいで、注意を怠った。ここは小学校のプール。普通のものより底が浅いことをすっかり失念していた。
ゴツッ、と鈍い音とともに、オレはプールの底に頭をぶつけた。本日二度目の失態。ぶつけた拍子に酸素も吐き出してしまったオレは、たまらず浮上した。
「ぶはぁっ! くううッ、痛てぇ……」
「大丈夫?」
おでこを押さえたオレに心配そうな声がかけられた。聞いたことのある女性の声。オレはたんこぶをさすりながら、プールサイドを見上げた。
そこにいたのは小麦色のマーメイド。いや、水着姿の瑞希だ。しかも十年前の瑞希ではなく、オレと同じ十七歳の。
「何やってんだ、コータ」
大地もいた。見回すと、ここは最初にいた高校のプールだ。どうやらオレは、過去から現代へと戻って来れたらしい。
「ほら」
瑞希はオレに手を差し伸べた。オレはそれにつかまって水から上がる。すると途端に、瑞希がオレから恥ずかしげに目を逸らした。
「ちょ、ちょっと、やだ、何なの、その格好……!」
どうやらオレのブーメラン水着姿は似合わなかったらしい。まあ、自覚はあったけど。
「バーロー! これは大地の野郎に強引に押しつけられてだなぁ……」
チクショウ、そうやって瑞希に赤面されると、改めて恥ずかしくなってくるじゃねえか。
「見ろよ、瑞希。あのコータのたるんだ身体。ありゃ、中年になったらメタボ体型になるのは間違いないな」
「やめなさいよ、大地」
オレをからかう大地を瑞希がたしなめた。ただ、瑞希は大地の裸に馴れているのか、オレのときのような過剰な反応はない。同じもん穿いてるのに、何なんだよ、この差は?
「背中の傷……少し小さくなったね」
オレの古傷を久しぶりに見たのだろう。瑞希がためらいがちに言った。
「もう何年前のことだと思ってんだよ? 痕は残っちまったが、身体には何の影響もないんだから」
「そう。ならよかった」
「ところで――お前が瑞希も呼んだのか?」
オレは大地をねめつけた。
「ああ、そうさ」
対する大地はニヤニヤしてやがる。「ここはオレたちの男と男の勝負を瑞希にも見届けてもらおうと思ってよ」
「勝負? 何の勝負なワケ?」
瑞希も大地を睨んだ。本能的にロクな勝負ではないと察したのだろう。大地は素っ惚ける。
「それは言えねえよ。これはオレとコータの問題なんだから。――なあ、コータ?」
「ああ」
瑞希を賭けての勝負なんて、そりゃ本人には言えない。
「まあ、その勝負もオレの勝ちだったけどな」
大地は胸を張って言った。オレは奥歯を噛む。
「……まだだ」
「は?」
「勝負はまだついていない。今のはオレの足がつっちまっての不成立ってことで、もう一回やろうぜ」
オレの発言に大地の動きが止まる。想定外だったのだろう。オレが逆の立場でもそうだ。
「ふざけんな。競技だったら即失格だろ?」
「おい、大地。オレたちは水泳の競技をしてたのか? 違うだろ? これはいわば、男と男の勝負。そう言ったのは、お前だぜ」
自分でも詭弁を弄しているのは分かっている。でも、このままじゃ引けなかった。
大地は諦めた。
「ホント、お前は昔から負けず嫌いだよなぁ。分かったよ。もう一回、勝負すりゃいいんだろ? ――じゃあ、瑞希。スタートの合図、よろしくな」
大地は身体をほぐしながら、スタート台へ向かった。オレはその前に瑞希に声をかける。
「瑞希」
「ん?」
「もしもオレが勝ったら、今度の土曜、一緒に花火大会へ行かないか?」
「え?」
「二人だけで」
瑞希は大地の背中をチラッと盗み見てから、オレに微笑んだ。
「うん、いいよ」
そのときの瑞希は、国民的アイドルの水泳選手ではなく、昔からよく知る、オレの幼なじみだった。
オレは勇気を百倍もらったような気になって、大地の隣のコースに立った。
「それじゃ、準備はいい? 行くよ!」
瑞希がこちらに手を振った。オレらは揃ってスタート台に上がる。
「てっきり勝負はついたと思ったのに。ったく、諦めが悪いな」
横で大地がボソッと文句を言った。オレはスタートの構えを取りながらニヤリとする。
「バーロー! 昔はオレが三人の中で一番速かったこと、今、思い出させてやっからな!」