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吟遊詩人ウィル

暗黒街の歌姫

−39−

 《堕楽館》の芝生の上に倒れていたアッシュは、ゆっくりと目を開いた。
 そのアッシュを覗き込むようにしている人物たち。ベギラのギルド・マスターであるマダムと、その従者であるスマイル、そして、アッシュの腹心ドッグだ。誰の瞳にも悲嘆の色はなく、冷然と結果を受け止めているような顔をしていた。
 アッシュは起き上がろうとした。だが、身体の感覚はなく、動きもともなわない。見れば、アッシュの腹部は朱に染まり、おびただしい出血をしていた。ラークの長剣<ロング・ソード>が貫いたのだ。そのことを思い出し、アッシュは起き上がるのをあきらめると、力なく笑った。
 きっと、もうすぐ死ぬ、と自覚しながら。
「アッシュ」
 マダムが声をかけた。アッシュは眼だけを動かして、そちらを見る。マダムは開いた扇で顔の半分を隠すようにしていたが、覗いている眼は疲れているようだった。
「バカだよ、アンタは。私に逆らい、ギルドの掟を破るなんて……。私はみなしごだったお前を拾って、ギルドの幹部にまでしてやった。それをアンタは台無しにしたのさ。私を恨むのは別に構わない。お世辞にも、いい育ての親とは言えなかったからね。アンタもつらい思いをしてきただろうよ。憎んでくれて結構。でも、仮にも私はこのベギラのギルド・マスターだよ。ギルド・マスターへの反逆は絶対に許さない。それがギルドの鉄の掟さ。それはアンタも分かっていたはずだろ? それをどうしてこんな形で、安易に復讐しようなんて思ったんだい? もっとギルドで名を挙げて、私以上のギルド・マスターになれば良かったじゃないか。その上で、私を斃せば良かった。私はそれを期待していたんだよ。アンタなら私を超えることも出来るってね。……やっぱり、親の心子知らずってヤツかねえ。アンタを育てた私の気持ちを無にするなんてさ。本当にバカげているよ。だから、この結果は当然さ。身から出た錆だよ、アッシュ」
 マダムはそう言い終えると、寂しげな一瞥を残し、アッシュの視界から立ち去っていった。
 次はスマイルだった。すでにダンピールの再生能力が働いて、胸の傷はきれいに消えている。アッシュに向かって黙礼した。
「アッシュさん。僕は残念です。僕はずっとあなたに憧れていました。いつか、あなたのようにマダムの下で働きたいと、そう思って来たのです。それなのに、なぜこんなことをしたのですか? どうして、そのように命を粗末にしたのです? 僕には分かりません。マダムを憎むだなんて……。僕があなたを理解できないのは、僕が人間ではなく、ダンピールという穢<けが>れた血のせいでしょうか? 人間なら、必ずあなたと同じ考えをするのでしょうか? アッシュさんもご存じとは思いますが、僕は人間として生まれてきたかった。人間として、マダムやアッシュさんと出会ってみたかった。そうしたら、もっと違う生き方ができたんじゃないかって思うんです。だから、僕はあなたに、とても幸せになって欲しかった。僕がうらやむくらいの素晴らしい生き方をして欲しかった。それがこんなことになるなんて……。アッシュさん、さようなら」
 スマイルはそう言って、去って行った。
 最後に残ったのはドッグだ。そのひどい斜視からは、どんな感情を抱いているのか伝わってこない。ドッグは喋り始めた。
「アッシュ様。あなたはこのイヌめにとって、良き飼い主でありました。このイヌめをとても可愛がってくださりました。ありがとうございます。……ですが、もうお別れでございます。これからはマダム様の元で働かせていただくことになりました。お怒りにならないでくださいませ。イヌは飼い主がいてこそ働き場があるというもの。一度飼われた飼いイヌが野良犬になるのというのは、非常にみじめなものです。どうぞ、分かってくださいませ」
 三人の別れの言葉は終わった。最後のドッグも去っていく。その三人に向かって、アッシュは唯一動く右手を伸ばそうとした。だが、その右手に異変を察し、アッシュの表情が凍りつく。
 伸ばした手は、徐々にではあるが、灰となって崩れようとしていた。その灰がアッシュの顔に降りかかる。
 そこへ再びマダムがやって来た。手にしていたアッシュの《灰燼剣》を見せる。
「アンタ、憶えているかい? この《灰燼剣》は私が預けたものだよ」
 アッシュの眼は細められ、記憶を呼び覚まそうとしているようだった。だが、同時に、それが困難な様子にも見える。
「アンタの反逆は、これが初めてじゃない。二年前にも、アンタは私に刃を向けた」
 まるで身に覚えのない話だった。愕然とするアッシュ。どうして、憶えていないのか。
 マダムは続ける。
「余程、私を恨んできたんだね。幼い頃から、アンタの身も心も縛り続けてきた私を。もちろん、自らギルド・マスターとなって、このベギラを支配するという野心もあったんだろうけどね。二年前、同じように私を亡き者にしようとしたアンタは、返り討ちにあって、一度、死んだのさ。この《灰燼剣》でね。そして、再び私の手下となって働くよう、復活させた。アンタの有能さは、私が一番よく知っている。あのまま死なせるのは、もったいないと思ったのさ。これはそのときに預けたんだ。実際、アンタはよく働いてくれたよ。忠実な下僕としてね。ところが──」
 マダムは《灰燼剣》を抜き放つと、アッシュの首筋に切っ先を向けた。そして、初めて悲しげな顔をする。
「この《灰燼剣》の力も及ばなかったのかねえ。アンタは再び反逆した。そして、二度とも私を仕留め損なったんだよ……。やれやれ、我が子のように思っていたアンタに、二度も裏切られることになるとはね。まったくもって残念だよ」
 マダムはアッシュに何をするわけでもなく、《灰燼剣》を収めた。そして、アッシュに向かって背を向ける。
 アッシュは右手を伸ばし続けていた。眼からは涙がこぼれ伝う。何かを訴えるかのように唇が動いたが、それは声にならなかった。
「さよなら、アッシュ。もう私のために働く必要はないよ。ゆっくりと眠りな」
 マダムはそう言い残すと、今度こそ、アッシュの元から去っていった。スマイルとドッグもそれにならう。
 庭園の真ん中に、アッシュは一人残された。灰燼と化していく自分の右手を見つめながら。


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