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太陽が西に傾き始めた。ほどなくして、空は茜色に染まるだろう。かつての栄華も色あせてしまったベギラの街並みは、長く影を落とし、闇の跳梁を今や遅しと待ち焦がれているかのようだった。
その様を改めて眺めてから、ラークは背中の荷物を担ぎ直した。
「無法都市ベギラか……。もう来ることはないだろうな」
彼の故郷は遠いカリーン王国だ。マジック・アイテム《恭順の耳》をアッシュから取り戻したラークにとって、すでに留まる理由はない。死闘から三日。とりあえず普通に歩けるまでに回復したラークは、妹のクリステルや両親たちが待つティーレに帰ろうとしていた。
ラークに付き添っているのはウィルである。無口な吟遊詩人は、ラークをクリステルの元へ送り届けるという約束を守るため、ティーレまで同行するつもりのようだった。今はラークから少し離れ、出発を待っている。
ラークがなかなか歩き出そうとしないのは、彼の目の前に立っているロベリアのせいだった。ロベリアは帰ろうとするラークを、一人、見送りに来たのだ。だが、いざラークを前にすると、別れの挨拶も喉につかえているようだった。
ロベリアは今も尚、ラークに真実を告げるべきか迷っていた。マジック・アイテム《恭順の耳》を盗み出したのが、本当は自分であることを。
ラークが治療を受けている間、ロベリアはそのことをウィルに相談した。ウィルの話によると、ラークはまだ真実を知らないらしい。アッシュもそのことを口にすることなく死んでしまったようだ。ラークはすべてアッシュの仕業であると信じ続けている。だが、本当のことを知っているロベリアとしては心が痛んだ。今でもラークを騙している自分が許せない。
一方で、ラークに真実を話すことは怖かった。ラークはきっとロベリアのことを、異国の街で助けてくれた恩人だと心から感謝しているに違いない。それがすべて崩れ去ったとき、どうなってしまうのか。それを想像すると、言葉を呑み込まずにはいられなかった。
ロベリアに相談を持ちかけられたウィルは、ラークのいないところで言った。
「無理に話す必要はないだろう。すでに終わったことだ。彼は《耳》を取り戻し、首謀者を裁いた。彼はそれで満足している。これ以上、苦しみを与えてどうなる? 知らなくて済むのなら、その方がいい。このまま黙って帰してやれ」と。
確かに、ラークにとっては、これで万事が収まるのだ。今になって波風を立てる必要はないだろう。だが、真実を知っているロベリアはどうなる。一生、秘密を胸にしまったまま、生きていかなくてはいけないのか。そのことをいつか後悔しないだろうか。
ウィルの助言を受けても、ロベリアの決心は定まらなかった。
「じゃあ、行くぜ」
逡巡し続けるロベリアに向かって、ラークは言った。優しい笑みを向けてくる。ロベリアはその顔をまともに見られなかった。つい目線を逸らしてしまう。そんなロベリアの様子は、ラークにどう映ったか。
「なあ」
一歩前に進み出て、ラークが声をかけた。二人の距離はより近いものとなり、ロベリアは身を固める。普段、地下酒場《涸れ井戸》で唄っているとき以外は、女らしさを見せないロベリアだ。それが、この盗賊ギルドのはびこるベギラで生きてきた女である。男に対してひるんだ姿は決して見せない。それが今、まったく出来ないでいた。
ラークはまた一歩、ロベリアに近づく。もう息もかかりそうなほどの近さだ。
「良かったら……オレと一緒に行かないか?」
予想もしていなかったラークの言葉に、ロベリアは身体をビクッとさせた。そして、茫然とラークの顔を見上げる。
ラークの顔は緊張と恥ずかしさから強張っていた。それでもロベリアから視線を逸らさない。その瞳は真摯だ。
「オレと一緒にティーレへ行かないか? あそこは何もないところだけど、こんなベギラよりも平和で、暮らすにはいいところだ。ロベリアもきっと気に入ると思う」
そんなことは知っている。ロベリアは一度、ティーレへ行ったのだ。彼の妹も、そして彼の両親も、いい人だと充分すぎるほどに知っていた。しかし──
「弟さんも亡くなって、あなたは一人になってしまった。女性が一人で生活するには、この街は危険すぎる! もっと別のところへ行って、幸せをつかむことだって出来るだろう? オレは──」
ラークは勢い余って、ロベリアの肩に手をかけようとした。だが、それを避けるようにして、ロベリアはラークから離れる。そして、悲しげな表情で、首を横に振った。
「何を言ってるのよ? バカじゃないの? 前にも言ったじゃない。私とあなたとじゃ、住む世界が違うのよ。平和なカリーン王国で何不自由なく暮らしてきたあなたにとっちゃ、このベギラは汚くて貧しい街だと思うかもしれないけど、私はここで生まれて、そして生きてきたのよ! 私の故郷なの! それを……そんなことも分からないで、私にここを出て行けですって!? 冗談じゃないわ! ふざけないでよ!」
ロベリアは感情を叩きつけた。最後は涙声になっている。ラークはロベリアの反応に、しゅんと落ち込んだ。
「す、すまない……そんなつもりじゃ……」
「どうせ、私たちは違う世界の人間なのよ! ここはあなたにとってふさわしくないわ! とっとと帰りなさいよ!」
思わず涙がこぼれ、ロベリアはそれを見られまいと、ラークに背を向けた。感情が抑えられない。弁明しようとするラークを置き去りにして、ロベリアは走り去った。心の中で、「さようなら」と叫びながら。
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