三十五歳と言えば働き盛りである。まだまだ、やりたいことがあったはずだ。しかし、あいつは死んでしまった。
車道を横断中、右折してきたトラックに轢かれる交通事故だった。せめてもの救いは即死だったことだろう。
今夜はあいつの通夜で、今、私は自分の家へ帰る途中だ。冬の夜風は凍えそうに冷たく、背中を丸め、つい早足になる。
「まったく、“明日は我が身”と言うけどなあ。まさか、あいつが……」
通夜の席で同僚が話していた言葉に、私はうなずく思いだった。本当に人生というものは分からない。
「ハクション!」
突然、私の背後で誰かがクシャミをしたので、私は飛び上がって驚いた。ただでさえ暗い夜道なのだ。驚くなという方が無理だ。
私は思わず振り向いてみた。しかし、誰もいない。
「おかしいなあ」
空耳だったのだろうか。それとも隣家から聞こえてきたものだったのか。私は特に深く考えず、家路を急ごうとした。すると、
「あの〜、すみません」
と、今度はハッキリとした声が聞こえた。
私はまた振り返った。だが、やはり誰もいない。イタズラだろうか。
しかし、再び歩き出そうとすると、
「待ってください」
と、声は私を引き止めた。
私は誰だか分からないが、その正体を暴いてやろうと思った。
「誰だい、キミは?」
私は思いきって尋ねた。誰かにこんなところを見られたら、きっと頭がおかしい人だと誤解されただろう。
すると声は私に話しかけてきた。
「いや、待ってくれてありがとう。普通なら、みんな、逃げて行ってしまうのだが、あなたは度胸がありますね」
声はそう言って、私をおだてた。だが、そんなことよりも私には尋ねたいことがあった。
「それより、キミはどこにいるんだい?」
私は周囲を探してみたが、やっぱり相手の姿は見えなかった。だが、声は近くから聞こえる。
「実は私、信じてもらえないかも知れませんが、透明人間なのです」
「透明人間?」
SFなどでは聞いたことがあるが、実物にお目にかかるのは初めて──と言っても、やっぱり見えないのだが。
「はい。とは言え、私も少し前までは、あなたと同じように普通の人間だったのです。──いや、そんな事情はともかく、私は今、困っているのです」
「どうしたのですか?」
「あなたには見えないでしょうが、私は今、裸の状態です。このままでは風邪を引くどころか死んでしまいそうです。お願いです! あなたの服を貸してください!」
透明人間はそう私に頼んだ。
相手が困っているのは分かる。だが、彼に服を貸したら、私はどうなるのだ?
私は首を横に振った。
「悪いですが、この寒空の下、服を貸すなんて出来ません。他を当たってください」
「そんなことをおっしゃらずに! どうか、私を助けると思って!」
透明人間は必死になって、私にすがってきた。
「離してくれ!」
私は語気を強め、透明人間の手を乱暴に振り払った。
「どうしても貸していただけないのですか!?」
しつこく迫る透明人間。私は苛立った。
「当たり前だ!」
「仕方がない。ならば力ずくでも!」
透明人間は私に飛びかかってきた。たちまち殴り合いになる。しかし、彼の姿は見えないので、こちらのパンチがなかなか当たらない。一方、向こうのパンチは強烈で、五分もしないうちに私はKOされてしまった。
透明人間は倒れている私の身体から、まずコートを剥ぎ取った。そればかりでなく、背広も、ズボンも、シャツも、そしてパンツまでも。私はアッという間に裸にされてしまった。
「悪く思わないでください。これも私が生きていくためなのです」
彼の声に私は顔を上げた。
「!」
驚いたことに、そこにはもう一人の私がいた。そして、私の身体は、なんと透明になっている! まるで身体が入れ替わってしまったようだ。私は愕然とした。
「では、これで。せいぜい、風邪を引かないように気をつけるんだね」
そう言ってもう一人の私は立ち去っていった。
私は殴られたダメージのせいで、起きあがって追いかけることも出来ず、それを見送った。
透明になった私は自分の身体を眺めながら、彼がどうして透明人間になったかを悟った。きっと今の私と同じ目に遭ったに違いない。
不意に同僚の言葉が思い出された。
「“明日は我が身”か」
そう呟いた途端、派手なクシャミが一つ出て、私は寒さに身体を震わせるのだった。