「どうしてあんなことをしたんだ?」
弁護士は諭すように男に言った。相手が凶悪な殺人犯と言えども、感情的になるわけにはいかない。男は差し入れられたタバコをゆっくりとくゆらせた。紫煙が弁護士の顔にかかり、むせ返りそうになる。
ここは警察署内の一室。弁護士は今日、初めて男と面談した。男の後ろの壁には、用心のため制服警官が一人、立っている。おまけに男の手には手錠がはめられていた。
「弁護士さん、オレの話を聞いてくれるかい?」
男の言葉に、弁護士はうなずいた。
「ああ。私も君のことが知りたいよ。君の弁護を引き受けたからにはね。どうして君が白昼の銀行へ散弾銃を持って押し入り、わずかな現金を手にして、店内にガソリンをまき散らし、すべての行員並びに来店客を皆殺しにしたのか。そして、駆け付けた警官隊と凄まじい銃撃戦をして、三名の警察官を殺したのかをね」
男は自分の罪を聞かされながら、苦笑を浮かべた。
「それでも生き延びてしまうとはな、我ながら自分の悪運の強さにはあきれるぜ」
男にはまったく反省の色は見られなかった。だが、弁護士が顔をしかめたのは、そのせいではない。男の体のあちこちに包帯が巻かれ、痛々しい姿だからだ。男は銃撃戦で奇跡的に一命を取り留めたのだった。普通であれば、死んでいてもおかしくない傷だという。
「君は死にたいのかね? それであんな事件を?」
弁護士は男に自殺願望があるのかと考えた。だが、男は笑う。
「別に死にたいワケじゃねえ。オレだって普通に生きたいさ。だが、オレには死ぬことよりも怖いことがあるんだ」
男はそう言って、パイプ椅子に背をもたれた。そして、もう一度、タバコを深く吸い込む。
「ちょっと昔話になるが、いいかい?」
「いいとも」
弁護士は男に話の続きを促した。
男が遠い目をして語り始める。
「小さい頃、両親が共働きだったオレは婆ちゃん子だった。よく婆ちゃんから色々な話を聞かされたもんさ。よくあるおとぎ話なんかじゃない。戦争の頃の話が多かったな。婆ちゃんは空襲で、家族や親しい友達を失った経験があったんだ。それは恐ろしい体験だったらしい。その話になると、決まって最後に、死んだ家族や友達は、天国で婆ちゃんを待っているんだって、オレに言うんだよ。オレは質問した。『天国ってどういうところ?』てな。今のオレからは想像もつかないだろうけど、まあ、オレにもそういう頃があったってことさ。婆ちゃんはオレに天国の話をしてくれた。天国は雲の上にあって、死んで天国へ行った人は、地上で生きている人をずっと見守っているんだって。だから、もし婆ちゃんも死んだら、オレを見守っているんだって。だからオレにも、いつもいい行いをして、死んだら天国へ行けるようにしなさいって言ってくれた。オレも小さかったからな、その通りにしようと思ったよ」
「じゃあ、どうしてだ? どうして、あんな事件を引き起こしたんだ?」
弁護士の口調は、いつしか熱くなっていった。
それに対して、男は自嘲気味に続ける。
「あるとき、オレは気づいたんだ。オレは高いところへ登るのが苦手なんだってな。高いところへ登ると、心臓がすごくドキドキして、目が眩み、立っていられなくなるのさ。いわゆる“高所恐怖症”ってヤツだよ。その高所恐怖症は年々、ひどくなってよ。今じゃ二階への階段を登るのにも冷や汗が出るくらいだ。なあ、弁護士さん。そんなオレがもし死んで天国へ行ったらどうなる? 雲の上だぜ。そこから下界を見下ろすなんて、考えるだけでも身震いがすらあ。もちろん、オレだって婆ちゃんの話を今でも真に受けているワケじゃない。だがよ、死後の世界なんて誰にも分からないだろ? てことは、婆ちゃんの言ってたことが正しいってことも有り得る! オレはヤダね! 雲の上にある天国とやらで、ずっと暮らさなくちゃいけないなんて! そんなことになったらオレは気が狂っちまうよ! しかも、オレの命はそう長くないんだ。何でもスキルスとかいうオレみたいな若いヤツがかかるガンでよ、とても病の進行が早く、医者も手が着けられないらしい。だからさ! だから、オレは天国へ行かないよう、悪事の限りを尽くしてきたんだ! オレがやったのは今回のことだけじゃないぜ! 他にも五万と余罪があるのさ!」
男の話を聞いて、弁護士は身を震わせた。天国へ行きたくないから罪を犯したなんて。
恐れおののく弁護士に対し、男は残忍そうな笑顔を向けた。
「だが、まだ安心できないな。もうちょっと罪を重ねておかないと!」
やおら、男は立ち上がり、弁護士に飛びかかった。とても重傷を負ったとは思えぬほどの動き。監視役の警察官が止める間もない。男は素早く弁護士の背後に回り、手錠の鎖で首を絞めた。
「ぐあっ! がっ!」
弁護士は苦しさに堪えかねて、膝を屈した。それでもなお、男は手の力を緩めない。
警察官は男を止めようと、警棒を振りかざし、前からでは弁護士が盾になっているので、その背後へ回ろうとする。
だが、男はそれを見切っていた。警察官の警棒を持つ右手の甲に、まだ火がついたままのタバコを押しつける。
「あつぅ!」
警察官は思わず警棒を床に落としてしまった。反射的に拾おうとする。
しかし、それこそ男の思うツボであった。屈んだ警察官の顔面を容赦なく蹴り上げる。
バキッ!
異様な音がして、警察官はその場で気を失った。
「や、やめるんだぁ……」
弁護士は必死に抗おうとしたが、男から逃れることは出来なかった。男は弁護士を引きずりながら、廊下へと出る。
左右の廊下からは、数名の警察官と刑事が駆け付けてきた。部屋での出来事はモニターされていたのである。
「ムダな抵抗はやめろ!」
刑事の一人からお決まりのセリフが飛び出した。ジリジリと男を挟み込む。
「うるせえ! 近づくとこの弁護士の首をへし折るぞ!」
すでに弁護士の顔は紫色に変色していた。唇を噛む署員たち。
男の言いなりになるしかないかと思われた刹那、一発の銃声が轟いた。男の背中を銃弾が貫く。一人の刑事が男の背後から発砲したものだった。
銃弾は男の急所を的確に捉えていた。男の意識は、一瞬にして闇に沈んだ……。
(ああ、これでオレは天国へ行かないで済む……)
男は死の恐怖よりも安堵を感じていた。
だが──
「! ──ひっ、ひいいいいいいいいいいっ!」
死の暗闇から目を開けた男は、その視界に飛び込んできたものを見て絶叫した。
墜ちている!
それは無限地獄への落下だった。
足場のない、言い知れぬ浮遊感と耳元で唸る風の音。そして地の底は果てしなく、見通すこともできない。永遠の落下だ。いつまで経っても、地獄の底に辿り着くことがない。高所恐怖症である男にとって、それがどれだけの恐怖であったかは、推して計るべき、である。
「助けてくれええええええええええええっ!」
男は涙を流しながら懇願したが、地獄に救いなどあろうはずもなかった。