RED文庫]  [新・読書感想文



遺  訓


 先代の社長は立派だった。
 技術屋一筋に三十年。学歴はない。中学卒業後、小さな町工場に勤めた。毎日、朝早くから夜遅くまで、汗と油まみれになって働き続けた。ギャンブルなどの遊びには、一切、手を出さず、酒もタバコもやらない生真面目な男で、仕事にばかり明け暮れていた。
 そんな彼を慕う者は多かった。三十手前になった頃、同じ職場の仲間と独立し、新しい町工場を開いた。小さな機械部品を作る下請け会社だ。彼はそこでも真面目に働いた。周りの者たちは、そんな彼を社長に押し上げた。
 あれから十数年。町工場は相変わらず小さいままだったが、その技術力に世界が注目していた。携帯電話などに使われる細かい部品の受注が、日本の大手製作会社からはもちろん、アメリカやイギリス、そしてドイツからも舞い込むようになったのだ。千分の一ミリ単位で部品を作るその精密さは、世界の企業から賞賛され、テレビや新聞などでも一時期、取り上げられるほどだった。
 だが、そんな彼を病が襲った。癌だ。彼は病院のベッドに社員たちを集め、こう言った。
「息子と共に工場を守ってくれ」と。
 彼の息子は今年二十二歳。昔から勉強は得意でなかったようだが、父と同じように中学を卒業すると、その下で技術を学び、今では立派な後継者として成長していた。まだ年齢的には若すぎるかも知れないが、誰もが次期社長として認める存在だ。社員たちは社長の遺言を、当然、聞き入れた。
 やがて先代は亡くなった。技術屋として人生を全うし、きっと何も思い残すことはなかっただろう。
 だが、先代の息子が社長に就任した途端、町工場の経営方針が百八十度変わってしまった。
 賃金、ボーナスのカットに始まり、労働基準法を無視した残業の山、おまけに強制的な休日出勤。仕事量だけが倍以上に増えた。
 取引をしていた会社との関係も悪化していった。新社長が無謀な条件ばかりを出すせいだった。腹を立てた取引先のいくつかは、町工場との契約を取り消した。
 先代の社長と同様に、社員たちから慕われていたはずの新社長は、どうして突然、そんな経営をするようになったのか。堪えかねた何人かの古株の社員が、とうとう新社長に直談判するにまで至った。
「社長、一体どうしたと言うんです? このままではみんな倒れてしまいますよ! それに無茶な契約内容で取引先を怒らせたりして! どういうつもりなんですか? きっとここに先代がいたら、涙を流して悲しまれるでしょう!」
 すると新社長は苛立った様子で社員たちを睨みつけると、怒りを静めるように背中を向けた。そんな新社長に対し、さらに社員の代表が「社長!」と呼びかける。新社長は振り返った。
「親父が悲しむ? どうしてだ? 僕は社長としてこの町工場を守っていく上で、親父が言い残したことを実践しているだけだ! それがいけないって言うのか?」
 社員たちは顔を見合わせた。信じられないといった様子で。
「社長が──いや、先代がそんなことを……?」
「ああ。病室でみんなが帰った後、僕にだけ言ったんだ」
 誰よりも真面目で、人を思いやっていた先代が、息子である新社長にそんなことを言い残していたとは。その場にいた社員たちは全員、落胆した。
 新社長は社員たちをさらに納得させるよう、付け加えて言った。
「親父は僕に向かって、間違いなくこう言ったよ。『他人が嫌がることを進んでしなさい』ってね」


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