RED文庫]  [新・読書感想文



殺人代行者


「チクショウ、あの女!」
 タナベは憎々しげに悪態をつくと、懐のタバコの箱を探った。一本しか残っていない。その一本を口に咥えると、空箱を乱暴に丸め、力一杯、投げ捨てた。だが、そんなことをしてもタナベの怒りはおさまらない。
 タナベはテレビ・ドラマや映画に出演している俳優だった。決して売れていないということはない。しかし、元々が金遣いの荒い性格で、後輩の俳優たちに高額な小遣いを不必要に与えてみたり、あまり利用しない立派な稽古場を作ってみたりと、俳優としては素晴らしいものを持っているのに無駄な出費が多く、結局、多額の借金をするような生活を送っていた。彼の妻マユミは、そんなタナベに愛想を尽かし、離婚を申し出ていたのだ。
 ところが、そんなタナベに、突然、ハリウッドの映画会社から出演の依頼が来た。それは大物プロデューサーが製作する、太平洋戦争を舞台にした感動巨編で、敵同士であるはずのアメリカ兵と日本兵が友情を交わすという内容である。その物語の中でも重要なキャラクターである日本兵の役を、是非、タナベに演じてもらいたいというのだ。
 もちろん、タナベはその仕事を受けた。純粋に俳優としてのやりがいを感じたからなのだが、主演をハリウッドの大スターが演じるということもあって、タナベは一躍、日本のマスコミでも注目を集める存在になってしまった。さらに完成した映画が日米同時上映されるや、空前の大ヒット。アカデミー賞でも助演男優賞にノミネートされるという栄誉をたまわり、タナベの名はアメリカでも広く知れ渡るようになった。
 結局、オスカーの栄冠こそ逃したものの、その後もハリウッドから映画出演のオファーが舞い込み、日本での待遇も良くなっていった。当然、借金は瞬く間に返済。タナベは日本一の俳優と認められるようになった。
 あれだけ離婚すると騒いでいたマユミも、これには態度を豹変。あとは離婚届に判を押すだけだったのに、あっさりと取り下げた。
 ところが、これに困ったのはタナベだった。実は、ハリウッド映画出演後に一緒に仕事をした二十代の人気女優ミサと交際を始めていたのだ。かなり以前から別居状態だったタナベは、いずれは妻と離婚するからと、若くて聡明なミサにのめり込んでいたのだが、マユミの心変わりのせいで、そうもいかなくなってしまった。
 ミサとのことを真剣に考えたタナベは、やむなく自分から離婚を切り出した。ところが、マユミは頑として離婚を聞き入れなかった。
「あなたをずっと支えてきたのは私よ! その私を、売れてきた途端に捨てようって言うの!?」
 捨てようとしていたのはマユミではないか。それを一躍人気俳優になったら、コロッと態度を変えて。粘り強く説得を続けようとしたタナベであったが、マユミはまったく取り合わず、とうとう終いにはケンカになってしまった。
「チクショウ、あの女!」
 妻に対してつく初めての悪態。かつて二人が暮らしていた家から足早に出てくると、タナベはタバコを咥えながら、近くに停めてある車へ向かった。
 車に乗り込もうとした瞬間、フロントガラスのワイパーに小さな紙がはさんであるのを見つけた。どうやら名刺らしい。タナベは手に取った。
「『あなたに成り代わって、人殺しを請け負います』……。何だ、これは?」
 名刺の字を読んで、タナベは訝しげな顔つきをした。名前はないが、その下には連絡先なのか、携帯電話の番号が記されている。
「バカバカしい!」
 タナベは吐き捨てるように言うと、車へと乗り込み、名刺を助手席に放り投げた。エンジンをかけ、車をスタートさせようとする。不意に助手席の名刺に目がいった。
 タナベの携帯電話が鳴ったのはそのときだった。思わずぎくりとし、慌ててポケットを探る。相手は──“非通知”だった。
 もう一度、タナベは助手席の名刺を見た。ごくりと喉が鳴る。何か予感めいたものがあったのか、タナベは“非通知”の電話に出た。
「もしもし?」
『タナベさんですね?』
 電話の声は落ち着いた男の声だった。しかし、聞き覚えがない。
「どなたですか?」
『その助手席にある名刺の者です』
「!」
 タナベは驚きに心臓が止まりそうだった。慌てて、周囲を見渡す。相手はタナベが助手席に名刺を投げたのを知っている。ということは、この近くのどこかで、こちらを見ているということだ。
 しかし、住宅街に怪しい人物は見当たらなかった。一体、どこからタナベを見ているのか。
『捜してもムダです。それよりもビジネスの話をしましょう』
「ビジネス? 何のことだ?」
『その名刺に書いてある通りです。あなたが殺したい人物をあなたの代わりとなって殺して差し上げますよ』
「な、何をバカな!」
『いるでしょう、今すぐにでも殺したい人物が?』
 タナベの脳裏にマユミの顔が浮かんだ。だが、すぐに打ち消す。
「冗談はよしてくれ! 誰が殺人なんか頼むものか!」
『私はプロです。決して、警察に捕まったりはしません。これはビジネスなんですよ。あなたは邪魔な人物を消してもらう。私はそれ相応の報酬を戴く。ビジネスなんです。クールに考えましょう、タナベさん』
「……どうして私に電話してきた?」
『殺しの必要ない人に、私がこんな話を持ちかけても時間のムダです。あなたのことは調べさせていただきました。依頼人のことをよく知っておくことは、私のような職業ではとても重要ですからね』
「………」
『さあ、タナベさん、言ってください。私に誰を殺して欲しいかを。そうすれば私は確実に、その人物を殺して差し上げます。大丈夫、絶対に私が殺したとは分からない方法で殺しますから』
 タナベは喉がカラカラになるのを感じた。それでも唇は自然に言葉を絞り出そうとする。ある女性の名を。



 数日後、タナベは臨海公園で待ち合わせをしていた。海からの風が強く、タナベの髪をくしゃくしゃにしようとする。手には黒いアタッシュケースを持っていた。
「タナベさん」
 背後から男の声で呼ばれ、タナベは振り返った。だが、男の姿を見て愕然とする。
「お、お前は……!?」
「驚かれましたか?」
 男はニヤリと笑った。タナベの顔そのままで。
 まったく瓜二つだった。まるで鏡か双子。タナベの前にもう一人のタナベが立っていた。
「お約束通り、奥さんを殺してきましたよ」
「そうか……」
 自分で依頼しておきながら、タナベは後悔に苛まされた。あのときはつい弾みで、男の口車に乗ってしまったが、何も殺すことはなかったのではないかと思う。だが、すべてが手遅れだった。
「報酬を戴きましょうか」
 もう一人のタナベに促され、タナベはアタッシュケースを手渡した。もう一人のタナベはアタッシュケースをほんの少しだけ開け、中を確認する。中身は三百万円がぎっしりと詰まっていた。
「結構です」
 もう一人のタナベは満足そうにうなずくと、アタッシュケースを閉めた。
「一体……どんな方法でマユミを殺したんだ?」
「この拳銃でね」
 もう一人のタナベは、いきなり懐から取り出した拳銃を放り投げた。タナベはそれを慌ててキャッチする。ズッシリと重い。どうやら本物のようだ。
「呆気ないものです。あなたの声で奥さんをオープンカフェに呼びだし、離婚の話をしている途中、私が逆上したフリをして一発発射。簡単な仕事でした」
「……ちょ、ちょっと待て!」
 次第にタナベの顔が恐怖に引きつった。体が震え、手にしていた拳銃を落としそうになる。
「そ、その姿のままでか?」
「そうですよ。でなきゃ、奥さんが怪しむじゃないですか」
「周りに他の客もいたんだろ!?」
「もちろんです。みんなが目撃したでしょう。俳優タナベ・シンが奥さんを撃ち殺す瞬間を」
 もう一人のタナベはニヤリと笑うと、覆面を剥ぐように、タナベの顔をめくった。特殊メイクなのだろう、顔は皮のようにめくれ、その下から見知らぬ男の顔が表れた。何の特徴もなさそうな平凡な男の顔。男は同じように右手の皮を手袋のように脱いだ。同じく左手も。そして、タナベを形作っていた特殊メイクの皮膚を海に投げ捨てた。
「これで分かったでしょう? 私がどうして捕まらないか」
 男は肩をすくめながら、自慢げに言った。
 タナベは足から力が抜けたような感じになったが、それでも男にすがりつこうとした。だが、男はスッと身を交わす。
「ど、どうして、こんなことを!?」
 すると男は答えた。
「最初に説明したでしょう。名刺にも書いてあったはずです。『あなたに成り代わって、人殺しを請け負います』って。私はまさにあなたとなって、奥さんを殺したのです。あなたはそれを依頼した。当然の結果ではありませんか? これはビジネスなのですから」
 タナベは、その場に膝をついた。そして、茫然自失となる。
 そこへパトカーのサイレンが聞こえてきた。
「どうやら警察がここを嗅ぎつけてきたようです。あなたは逃げた方がいいでしょう。もし、捕まった場合、私のことを話すのは結構ですが、どこまで信じてもらえますかね。何しろ、目撃者が多いですから。まあ、健闘を祈ります」
 男はそう言い残すと、黒いアタッシュケースを手にしながら、いずこかへ去っていった。ただ一人、すべての人生が終わってしまったタナベを残して。


<END>


壁紙提供=素材屋 flower&clover


RED文庫]  [新・読書感想文