「どうぞ、入って」
「お邪魔しまーす」
ガールフレンドのモトヨに招かれ、マサカツは玄関に足を踏み入れた。
初めて訪れるモトヨの部屋。二人は大学で知り合い、交際も長いが、マサカツが自分の部屋に招待したことはあっても、モトヨはこれまで自分のアパートへ入れることは決してなかった。モトヨはキャンパス内でも有名な美人だが、少し気分屋で、機嫌を損ねるとあとあと大変だ。せっかくつきあえるようになったのに、大勢いるライバルに取られては元も子もない。マサカツはなるべく自然を装いながら、モトヨの部屋へ入れてくれるよう頼んでいたのだが、この度、こうしてようやく念願が叶った次第である。
モトヨのアパートは、マサカツの安アパートに比べると、はるかに小ぎれいで、ハイソな感じがした。モトヨがバイトをしているなんて話は聞いたことがないから、きっと親のすねをかじっているに違いない。たまにはここで泊まっていくのも悪くないな、と勝手なことを考えながら、マサカツはスニーカーを脱いだ。
そこへ廊下の向こうから一匹の仔犬が走ってきた。痩せたような体と不釣り合いなくらいに大きな頭。つぶらな瞳は潤んだように濡れている。チワワだ。
そのチワワはマサカツを見上げるや、けたたましく吠え立てた。
「キャンキャンキャンキャンキャン!」
「わっ! 何だ、いきなり!」
なりは小さいが、チワワはまるでマサカツを追い出そうとしているかのようだった。マサカツは少したじろぐ。
それを見て、モトヨは苦笑した。
「やっぱりねえ。だから、あなたを連れて来たくなかったのよ」
モトヨに言われ、マサカツは狼狽した。
「ど、どういう意味だよ?」
モトヨは廊下にしゃがむと、吠え続けるチワワの頭を優しく撫でた。それでもマサカツへの敵意は変わらない。
「この子ねえ、男の人には決して懐かないの。私が男の人を連れてくると、必ずこうやって吠えるのよ」
「へ、へえ……」
どうやら、この部屋へ来た男はマサカツが初めてではないらしい。それでもマサカツは、それを聞き流すことにした。
突然、チワワはマサカツの足に噛みついた。
「うわっ!」
マサカツが悲鳴を上げる。幸い、肉の部分ではなく、ジーパンの裾に噛みついただけだったが、まるでスッポンのように食らいついて離れない。マサカツは彼女の愛犬を邪険にするわけにもいかず、弱々しく足を振って、逃れようとした。
「こらぁ、ダイスケ! やめなさい!」
モトヨは焦った様子で、マサカツの足からチワワを引き剥がそうとした。チワワは唸りながら抵抗する。それでも、所詮は小型犬。モトヨがグイッと引っ張ると、チワワはマサカツの足から離れた。
「もお、悪い子ね! しばらく檻に入ってなさい!」
モトヨはそうチワワを叱ると、リビングへ行き、部屋の隅に置いてある小さな檻に閉じこめた。チワワは悲しげに瞳を潤ませ、飼い主を見上げる。だが、後をついてマサカツがやって来ると、再び吠え始めた。
これには、さすがのモトヨもうんざりとした顔を見せる。
「ね? 分かったでしょ? いつもこれなのよ」
肩をすくめるモトヨに、マサカツは笑いかけた。
「仕方ないさ。きっと、ご主人様を守っているつもりなんだろ」
「そう? やっぱり、そう思う? 私もね、そんな気がしてたんだ。だからね、私、この子に“ダイスケ”って名前をつけたのよ」
モトヨの口から出た名前に、マサカツは怪訝な顔をした。
「ダイスケ?」
「うん、高校時代の同級生だったの」
「……初恋の人だったとか?」
「え?」
三秒ほど間があってから、モトヨは吹き出した。冗談はやめて、とばかりに手を振る。
「そんなんじゃないわよ。ただの同級生。──でも、向こうはその気充分だったみたいだけど。とにかく、私に付き合ってくださいって、しつこいくらいに言ってきたのよ。あー、思い出すと懐かしい」
楽しそうに回想するモトヨに、マサカツは嫉妬した。
「……そいつ、今は?」
「ダイスケくん? ──死んじゃったわ」
「え?」
あっさりと言うモトヨに、唖然とするマサカツ。
「高校一年のクリスマス、どういうわけか雪の降る夜に、一人で学校の校庭に立っていたとかで、肺炎になったのよ。それをこじらせて、死んじゃったんだって。どうして、そんな寒い日に校庭にいたんだか、真相は分からないんだけど。──でね、私、思うのよ。この子がダイスケくんの生まれ変わりじゃないかって。ダイスケくんが私のことを心残りに想って、こうして再び出会えたんだって。だから、男の人を連れてくると、私を守ろうとするんだわ、きっと!」
「ふ〜ん、同級生の生まれ変わりか……」
マサカツは檻に近づいて、まじまじとチワワのダイスケを見つめた。ダイスケは相変わらずマサカツに向かって吠え続けている。
「──とりあえず、コーヒーでいい?」
キッチンへと向かいながら、モトヨが尋ねた。
「うん、いいよ」
振り向きもせず、マサカツは答えた。モトヨがインスタント・コーヒーを煎れ始める。そんなモトヨに聞こえぬよう、マサカツはこっそりと檻の中のダイスケに言った。
「安心しろ。モトヨはオレが幸せにしてやっからよ」
そう言って、マサカツは指先で檻をつついた。
だが、チワワのダイスケは、マサカツに向かって吠えるのをやめなかった。それはもう必死な感じで、前肢を掻くようにしたり、檻の中をぐるぐると回ってみたり、先程よりも激しい反応を見せている。
まさか、このチワワがモトヨの言うとおり、高校生で死んでしまったダイスケの生まれ変わりであるとは、夢にも思わなかっただろう。
そして、二人にはイヌの言葉が通じないと分かっていながらも、ダイスケは懸命に叫び続けていた。
「早く別れるんだ! そいつは、クリスマスの約束を平然とすっぽかすような性悪女だぞ!」
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