RED文庫]  [新・読書感想文



味にうるさい夫


「ああ、もうすぐ帰ってきちゃう。どうしよう……」
 郷子はキッチンの前で立ち尽くしながら、泣き出しそうな顔で呟いた。
 郷子は三ヶ月ほど前に結婚したばかりの新妻だ。本来ならば、夫である梨元保雄の帰りを待ちわびることはあっても、困ったりはしないだろう。それには深い事情があった。
 保雄は普段、とても優しく、夫として何の不足もなかったが、ただ一つ、郷子が作る料理の味に関してはうるさかった。元々、料理は苦手にしていたので、結婚する半年前から料理教室にも通ったのだが、どうも保雄の口には合わないらしい。郷子自身が美味しいと思っても、保雄はいつも美味しくないと文句を言った。
 かといって、保雄は露骨に料理を下げさせるようなことはしなかった。一応は全部平らげる。だが、決して満足していないのは、食後の表情を見れば明らかだった。
 その理由に、一つ思い当たることがある。保雄の亡くなった母親は、テレビにも多数出演していた有名な料理研究家だったのだ。その母親は、すでに七年前に他界しているが、それまで保雄は母の手料理を食べ、かなり舌が肥えているに違いない。郷子は保雄のため、自分の母や友人に料理を教わったり、義母が残したレシピを参考にいろいろと作ってみた。もちろん、使う材料も充分に吟味したつもりである。だが、食した保雄には、いずれも不評に終わっていた。
 だからといって、店屋物で済まそうとすると、保雄は余計に不機嫌になった。
「なあ、僕らは結婚したんだろ? 仕事から帰ってきた夫に、妻が手料理を出さないでどうするんだ? もうちょっとしっかりやってくれないと困るよ」
 怒鳴りこそしなかったものの、保雄の剣呑な目は今でも忘れられない。だが、どんなに努力しても、保雄を満足させられそうな料理は出来なかった。
 今日もあれやこれやと、一日中、キッチンの前に立って試行錯誤してみたが、これといったものが作れずにいた。そうこうしているうちに夫の帰宅時間である。帰ったときに、すぐに何か出せないとまずい。
「どうしよう、どうしよう……」
 そうこうしているうちに、玄関のチャイムが鳴って、保雄が帰ってきた。真っ直ぐキッチンへやって来て、愛する郷子にお帰りのキスをする。
「ああ、腹が減った。今日は何だい?」
 試作品を色々と作ったので、キッチンには美味しそうな匂いがたちこめていた。だが、肝心の料理は何もない。
「あの……その……もうちょっとで出来るから、先にお風呂、入ったら?」
 郷子は何とか時間稼ぎをしようと、必死に言い繕った。保雄は素直に背広を脱ぎ出す。
「そうだなぁ、先に入って来るか」
 そう言って、保雄は風呂場の方へ行った。郷子はホッと胸を撫で下ろす。
 だが、これは一時しのぎにしかすぎない。何とかしなくては。
 郷子は意を決すると、調理に取りかかった──。



 やがて、風呂から上がった保雄が、再びキッチンへやって来た。そして、郷子に微笑みかける。
「おっ! この匂いは……」
「カレーよ」
 郷子が保雄の目の前に差し出したのはカレーライスだった。これまでは手の込んだ料理ばかりを作っていたので、意外にも結婚してから初めて出す品だ。
「懐かしいなあ。昔、仕事の忙しい母さんが手早く作ってくれたもんだよ」
「そ、そう?」
 郷子は緊張しながら、テーブルにカレーライスを置いた。早速、保雄はスプーンを手に取る。
「どれどれ。いただきます」
 保雄はカレーライスをスプーンですくうと、大口を開けて一口食べた。
 そんな夫を見ながら、郷子の緊張は限界点にまで達していた。きっとこんなものじゃ怒られる。そう思って──
 ところが、
「うん、旨い!」
 予想に反して、保雄は満面の笑みを浮かべた。これには郷子の方が拍子抜けする。
「え? ほ、ホントに?」
「ああ、旨いよ! これだよ! この味だ! 母さんがよく出してくれたのは!」
 保雄はそう言うと、凄い勢いで食べ始めた。
 郷子は後ろを振り返った。その視線の先には、キッチンのゴミ箱に突っ込まれたレトルト・カレーのパッケージ。そう、郷子が苦肉の策で出したのは、数分間温めるだけで出来上がるレトルトのカレーライスだった。
「ホントにお義母さんの味とそっくり?」
 郷子は念のため尋ねた。すると保雄はうなずく。
「ああ。そっくりもそっくり! よく再現できたなあ」
 保雄は感心するように言い、夢中で食べ続けた。
 郷子は思った。ひょっとすると保雄の母はあまりに仕事が忙しく、普段から手軽なレトルト食品ばかり与えていたのではなかろうか。それを保雄はてっきり母の手料理と思い込んで食べていた。道理で郷子の作った、手の込んだ料理が口に合わないわけだ。
「おかわり!」
 アッという間にカレーライスを平らげた保雄は、空の皿を郷子に突き出した。こんなことは新婚生活を送って以来、初めてのことである。
「そんなに美味しいのなら、私のをあげるわ。何なら、これから毎日でも作ってあげていいわよ」
 そう言って、郷子は自分の分のレトルト・カレーを保雄に差し出した。テーブルの下では渾身の力で握りしめた、殺意すらこもった拳を震わせながら。


<END>


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