「ただいま──あ」
　家の玄関を開けると、妻の折恵が仁王立ちで待ちかまえていた。渋沢は予想していたものの、こうも想像通りのポーズで立っていられると、さすがにギクリとする。
　午前一時。とっくに寝ていてもおかしくない時間だ。
「何が『ただいま』よ。今、何時だと思ってるの？」
　折恵がトゲトゲしく尋ねた。その鼻息も荒い形相を見て、妻の頭に鬼の角が生えているのではないかと思い、渋沢は首をすくめる。知り合った頃は可愛いところもあったが、いつからこんなカカア殿下になってしまったのか。
「何時も何も、仕事で遅くなると電話したじゃないか。オレなんか待っていないで、とっとと寝てればよかったのに」
　渋沢はそう言いながら、靴を脱いで、玄関から上がろうとした。だが、折恵はその場を動かず、立ちふさがったままだ。
「おい」
　疲れているんだ、勘弁してくれ、と渋沢は目で訴えた。それでも折恵は頑なだった。
「仕事ですって？　ふーん、どうだか」
　折恵は疑わしそうに渋沢を見た。
　渋沢は平静を装っていたが、内心はヒヤリとしていた。妻に見抜かれている。自分の浮気を。
　事実、仕事で遅くなったというのはウソだ。本当はつい先程まで、会社の部下である新谷真帆と食事をし、その後、ホテルでお楽しみだったのである。
　真帆は新卒の新入社員で、なかなかの美人だ。先にモーションをかけてきたのは真帆の方である。歳が十五も離れているのに、なぜか渋沢を気に入ったらしい。同世代の男では包容力が足りないというようなことを、以前、聞いたことがある。
　それまで渋沢の女性関係と言えば、妻ただ一人であった。最初は拒もうとしたが、美女に誘われて心を揺らさない男はいない。それに折恵との夜の生活も、今はすっかり冷え切っていた。やがて渋沢は青春を取り戻したような気になり、真帆の若い肉体に溺れ、関係は一年近く続いていった。
　ところが、頻繁に逢瀬を重ねたせいで、どうやら妻の折恵は浮気だと気づき始めたらしい。特に最近は渋沢の行動を見張っているようなところがあり、ボロを出さないよう、気をつけていた矢先だ。本当は真帆と逢うのを控えればいいのだろうが、渋沢の方が年甲斐もなく熱を上げてしまい、さすがにそれは出来なかった。
　妻には後ろめたく、申し訳ないとは思いつつ、渋沢はこのまま浮気を続けるつもりだった。だからといって、開き直ってみせることも勇気もないのだが。
　とにかく、ひたすら隠す。それしか渋沢の頭にはなかった。
「ああ、疲れた。飯は食ってきたから、風呂に入って、早く寝る。明日も早くに出勤しなくちゃならんからな」
　渋沢は折恵を押しのけ、大股でバスルームへ向かった。折恵は睨むようにして、その後ろをついてくる。
　渋沢は自然に振る舞おうと、脱衣所で服を脱ぎ始めた。すると折恵は、渋沢の脱いだワイシャツを洗濯かごから手に取り、神経質そうな顔で鼻を近づける。
「何してんだ、お前？」
　渋沢は呆れたような表情を作って言った。だが、折恵は真剣に臭いを嗅いでいる。
「女の匂いは……しないか」
　なかなか鋭いところを突いてくる。女というヤツは男よりも匂いに敏感だ。
　だが、渋沢も用心はしていて、ホテルを出る前に服には消臭剤を振りまいてきた。真帆の匂いは消えているはずだ。
　それでも折恵の疑念は消え去らない。
「おい、裸になるんだから、あっちへ行ってくれよ」
　渋沢は脱衣所から妻を追い払おうとした。だが、折恵は言うことを聞かない。
「何よ？　あなたの裸なんて見飽きたわ。今さら、何を照れるって言うの？」
「………」
　これ以上強く言うことも出来ず、渋沢は上半身裸になった。途端に、折恵が目を皿のようにして観察してくる。
　きっとキスマークでも残っていないかと、探しているに違いない。以前、不用意に裸になったとき、折恵に見咎められたことがある。そのときは虫に刺されて掻いた痕だと通したが、折恵は信じていなかったに違いない。
　しかし、その辺も予測の範囲だ。真帆にはキスマークをつけないよう、ちゃんと言い含めてあった。真帆も渋沢が困るようなことは絶対にせず、非常に聞き分けがいい。
　浮気の証拠など何も出てきやしないと、渋沢は自信を持っていた。折恵も納得はしていないものの、肝心の証拠がないのでは、渋沢を責めることもできない。
　折恵があきらめて、脱衣所から出て行こうとしたときだった。
「あなたっ！」
　怒気のこもった折恵の声が震えた。その目線は、たった今、ズボンを脱いだ渋沢の下半身へ──
　渋沢は何を驚いているのかと、自分も見下ろしてみた。その瞬間、顔面が蒼白になる。
　なんと渋沢の穿いていたパンツは、前と後ろが逆になっていた。ホテルで身につけたとき、逆に穿いてしまったのだ。
「いつ、どこで、パンツをお脱ぎになったのかしら？」
　折恵の形相が、益々、鬼女と化し、渋沢を心底から縮み上がらせた。