「いらっしゃいませー」
昼下がりの喫茶店「ボナ・ペティ」へ英吉が入ると、気持ちの良い出迎えの挨拶が響いた。この店の看板娘の声だ。英吉はそれにニンマリすると、店内を見回した。
店には、それぞれ昼食後のサラリーマンが多く訪れ、午後の仕事前のひとときを楽しんでいた。ほとんど満員。テーブルの相席を除けば、カウンターの一番左端しか空いていない。その脇にはレジがあって、少々、窮屈なのだが、英吉は意に介さず、そのカウンター席を選んだ。
「よっこらせ、と」
英吉がスツールに腰掛けると、すぐに目の前へ水の入ったコップが置かれた。
「いらっしゃいませ」
「すみれちゃん、今日も可愛いねえ」
英吉は水を運んできた店の看板娘、すみれに言った。すみれはすぐに顔をほころばせ、やだぁー、そんなこと言ってぇー、と照れる。その仕種がたまらなく可愛い。
「いつもので?」
「うん、いつもの」
これだけの会話で、英吉の注文はすみれに伝わった。それだけ英吉がこの店へ頻繁に足を運んでいる証拠である。すみれはカウンターにいるマスターへ注文を伝えると、水差しを持って、テーブル席を回り始めた。
英吉はその後ろ姿を目で追う。何て可愛いんだろう。英吉がここへ通い続けるのも、すみれに会いたいがためだった。そのお陰で、今では多少の会話を交わす仲になっている。
今日はすみれをデートにも誘うつもりだった。財布には映画のチケットが二枚入っている。先週、すみれが観たいと言っていた映画だ。
きっと承知してくれるだろうと期待しながら、英吉はカウンター席に座り直した。すみれが持ってきてくれた水を一口飲もうとする。そこで初めて、英吉は隣の席の男に気づいた。
男は店にいるサラリーマン風の客とは容貌が異なった。よく言えば体格がガッシリとして、悪く言えば肥満気味の体型は、いかつい顔と相まって、まるでプロレスラーのようだ。服装は赤いアロハシャツを羽織るようにしており、一見したところ、素性がつかめない。目の前のアイス・コーヒーにも口をつけず、ただカウンターに腕組みの格好で体を預けるようにし、時折、後ろを振り返って、店内の様子を窺っているようだった。
どうやら、男が気にしているのは、英吉と同じく、すみれのようだった。隣にいる英吉には、すぐ分かる。だが、すみれがこちらの方を向くと、男はそそくさと顔を逸らした。こんな立派ながたいをしておいて、意外と気の小さいところがある。英吉は思わず吹き出しそうになった。
「ありがとうございました!」
テーブル席にいたサラリーマンの三人組が会計をしようと立ち上がった。すみれが伝票を持って、英吉の隣にあるレジの方へとやって来る。すると、隣に座っていた男は、顔を伏せるようにした。どうも、すみれと顔を合わすのが恥ずかしいらしい。
「コーヒー三つで、千三百五十円になります。──二千円、お預かりします。──六百五十円のお返しです。ありがとうございました! また、お越しください!」
こうして会計しているすみれの近くにいられるのが、この席の利点だった。すみれの可愛い顔を間近で見ていられる。すみれも英吉にずっと見られているのを意識しているようだった。会計が終わると、はにかんだような笑顔で、逃げるように次の仕事へと戻っていく。
英吉はニヤニヤしながら、そんなすみれを眺め続けた。すると隣の男も、すみれがレジから離れた途端、顔を上げて振り返る。
もう間違いはない。この男もすみれに気があるのだ。
だが、すみれをデートに誘うのは自分だと、英吉は男にクギを刺しておくことにした。
「彼女、やっぱり可愛いですよね」
英吉は隣の男に話しかけた。すると男はまた首を戻して、うつむき加減になる。英吉はさらに続けた。
「この店がこんなに繁盛しているのも、彼女目当ての客が多いからでしょう。もちろん、僕もその一人ではあるんですけど」
男は黙っていた。まるで英吉の話など聞こえていないかのように。それでも構わず、英吉は喋った。
「彼女、すみれちゃんって言ってね。話を聞いてみると、僕と同じ長野県の出身なんですよ。住んでいた所も近かったみたいで、意外と学生時代、知らない間にすれ違っていたなんてこともあるかも知れませんねえ。出身が同じこともあって、よく故郷の話題で盛り上がるんですよ。彼女とは出会うべくして出会ったような気がします。やっぱり、こういうことを言うんでしょうね。──“運命の赤い糸”って」
そのとき、初めて男は英吉の方を振り向いた。その目が険悪に細められる。
しかし、英吉の饒舌は止まらなかった。
「知りません? “運命の赤い糸”。ほら、生まれたときから、結ばれる運命にある男女は、小指と小指が赤い糸でつながっているって──」
その刹那、男はいきなり立ち上がった。
「おんどりゃあ、わいにケンカ売ってんのか、コラーッ!」
隣に座っていた男──ヤクザは、小指のない手で英吉の胸ぐらをつかんだ。
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