「あっ」
声は上げたものの、助ける暇もなかった。
オレはガールフレンドの桃子と避暑地の湖畔までドライブに出掛け、その途中、絶好のロケーションを見つけた。美しい湖を一望できるそこで、桃子に言われるがままに車を止めたオレ。だが、はしゃぎすぎた桃子は、誤って湖に落ちてしまった。
「桃子!」
オレはすぐに湖を覗き込んだ。しかし、湖は岸部に近いのにかなり深いのか、沈んだまま。代わりに浮かび上がる気泡は、しばらくして途絶えた。
まさか、溺れちまったのか──とオレが青くなると、いきなり湖面がパーッと光り輝いた。そして、光の粒子がオレの目の前に集まり、そこからおだやかな表情の女性が現れる。信じられないことに、その女性は湖面の上に浮かんでいた。
オレは言葉を失ったまま、茫然と女性を見つめた。
すると女性はオレに語りかけ始める。
「ここに落ちた女性は、あなたの恋人ですか?」
「はあ」
尋ねられたオレは、間抜けな返事をした。すると女性の隣に、もう一人の女性が現れる。迫力のあるバストとヒップに、くびれたウエストを持つ肉感的な金髪の美女だ。オレにウインクして、投げキスまでしてくる。
「この人がそうですか?」
隣の女性が言った。オレはまじまじと金髪の美女を見つめる。もちろん、桃子とは似ても似つかない。だが、そのダイナマイト・ボディはオレの煩悩を直撃した。ベッドの上で大きな声を出しながら激しく乱れるシーンを想像する。うっ、鼻血が出そう……。
しかし、もう一人のオレが冷静にこの状況を分析していた。これって、どこかで聞いたことがあるような……。
そうだ! 幼稚園のころに紙芝居で見た「金の斧・銀の斧」という童話に似ている。あれは「イソップ物語」だったか、詳しいあらすじは忘れてしまったけど、確か木こりが川だか泉だかに大事な斧を落としてしまい、そこへ女神だか精霊だったかが現れるんだ。そして、木こりに「お前が落としたのは、この金の斧か、銀の斧か」と問いかける。すると正直者の木こりは、「どちらでもありません。私が落としたのは鉄の斧です」と答え、女神から元々の斧と、金と銀の斧を渡されるという話だ。めでたし、めでたし。
まさにこの状況は「金の斧・銀の斧」にそっくりじゃないか!
オレはゴクリと唾を飲み込んだ。
今ここで金髪美女をオレの恋人だと言っても、彼女はオレのものにならないだろう。それどころか、湖に落ちた桃子すら帰ってこない可能性もある。ここは正直に答えるべきだ。そうさ。あの童話は「正直者は得をする」結末なんだから。
金髪美女のフェロモンにクラクラさせられながら、オレは意を決した。
「い、いいえ、その女性ではありません」
そう答えると、金髪美女は消えてしまった。代わって、別の美人が現れる。
今度は金髪美女とまったく違うタイプだった。深窓の令嬢を思わせるお嬢様タイプ。オレを見て、伏せ目がちになりながら、恥ずかしげに微笑んだ。まだ男も知らぬウブな感じがそそった。
「では、この人ですか?」
隣の女神がまたしても問うた。
オレの決心は揺らいだ。
高い競争率を勝ち抜いて、やっと付き合うことに成功した桃子だが、いざ彼女にしてみるとわがままなところに振り回されっぱなしで、いささか嫌気が差していたところだ。目の前のお嬢様なら、きっとわがままなんて言わず、オレの言うことを何でも聞いてくれるだろう。オレは甘い生活を夢見た。
──いやいやいやいやいやっ!
何を考えているんだ、オレは! これは仕組まれた罠なのだ。ここで屈してはすべてがパー。オレが桃子を選べば、童話「金の斧・銀の斧」がそうだったように、きっと先程の金髪美女もこのお嬢様もオレのものになるはず。
オレはグッと煩悩を抑え込んだ。
「ち、違います。ここへ落ちたのは桃子です」
すると女神は優しく微笑んだ。
「分かりました。今、返して差し上げましょう。一生、大事にしてあげてください」
女神はそう言うと、スーッと姿を消した。
え? 帰っちゃうの? 正直に答えたオレに金髪の美女とお嬢様をくれるんじゃなかったの?
だが、オレの心の訴えも虚しく、女神はいなくなってしまった。途中で、金髪美女かお嬢様を選んでおくんだったか?
オレが後悔していると、湖に再び気泡が浮かんできた。覗き込むと、誰かが浮上してくる。
そうだ。オレには桃子がいる。ちょっとわがままなところはあるけど、桃子だってかなりの美人だ。こんな人もうらやむ彼女がいるのに、浮気心を起こしちゃいけないな。
浮かんできた桃子は咳き込みながら腕を伸ばしてきた。オレはその腕をつかんで引っ張り上げてやった。
「大丈夫か、桃子?」
しかし、次の瞬間、オレはその手を離しそうになった。オレが引っ張り上げたのは、見たこともないほど不細工な女だったからだ。
そいつは助けたオレに感謝するよりも先に悪態をついた。桃子の声で。
「ゲホッ、ゲホッ! もお、最悪! お化粧がみんな落ちちゃうじゃなーい!」
正直者はバカを見る。めでたくなし、めでたくなし。
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