RED文庫]  [新・読書感想文



クマに注意


「お気をつけて。また、お越しください」
 居酒屋の女将の声に愛想笑いを見せながら、勘吉と吾作の二人は外へ出た。酔いのせいで火照った顔には気持ちいいくらい、氷点下に近い冷気が二人を包み込む。丁度いい寒さだ、なんて言っていられるのは今のうちだけである。家へ帰り着く頃には、体を丸めるようにして震えることになるだろう。
 北国の冬はこれからが本番だが、近頃は夜になると急激に冷え込み、地元で育った人間さえも凍えさせた。
 久しぶりに酒を酌み交わした勘吉と吾作は、せっかく温まった体を冷やすまいと、帰り道を急いだ。申し合わせたわけでもないのに、二人の歩調は次第に早くなっていく。
 町といっても閑散とした二人の故郷は、田んぼや畑ばかりで極端に民家が少ない。居酒屋から少しでも離れると、舗装された県道にだけ並ぶ、外灯の心許ない明かりがあるだけだった。
「なあ、お前、聞いたか? 松永の婆さんの話」
 ふと吾作が隣の勘吉に尋ねた。
 松永の婆さんといえば、川向こうにある山林の近くに住むお年寄りだ。今年、八十八歳を迎えたそうで、町でも近所の人たちが寄り合って、米寿のお祝いをしてやったという。だが、それは半年以上も前のことだ。吾作が話したいのは、そんなことではないだろう。
「松永の婆さんがどうした?」
 白い息を吐きながら、勘吉は聞き返した。
 すると吾作は、ぶるっと体を震わせてから、
「昨日、松永の婆さん家に出たらしいんだよ」
 と声を潜めた。勘吉がうろんな目をする。
「出たって、何が?」
「クマだよ」
「クマ?」
 勘吉は思わず大きな声を出した。吾作が神妙な顔をしてうなずく。
「ああ、でっかいツキノワグマだったそうだぜ。どうやら山林の伐採で食べ物がなくなって、人里まで降りてきたらしい。婆さんの家の裏で干していた柿を取って行ったそうだ。そのとき、婆さんは家の中にいたんだが、驚いた拍子に腰を抜かしちまってな。もし、家の中までクマが入ってきてたら、危なかっただろうって話だ」
「へえ」
「何だ、お前。本当に知らなかったのか? 新聞社やテレビの取材も来て、結構、大騒ぎだったんだぞ。それにまだ捕まっていないらしい」
 吾作は少し呆れながら言った。勘吉は笑ってすませる。吾作は肩をすくめた。
「まったく、今のお前さんに何を言ってもムダだな。あんな美人の嫁さんをもらったばかりじゃ」
 吾作は揶揄するように言って、勘吉の背中をドンと叩いた。
 勘吉は町の男たちがうらやむほどの美人である玖美子と結婚したばかりだった。玖美子は地元の人間ではなく、都会育ち。それがどこをどう間違って勘吉と知り合い、一緒になる気になったのか。
 勘吉にとってはこれが二度目の結婚だった。一度目は嫁さんに愛想を尽かされて、出て行かれたのである。それだけに玖美子ほどの美人と再婚できたことが周囲には不可解だった。
「いやあ、あははは」
 勘吉は大照れになって、頭を掻いた。勘吉が玖美子にベタ惚れなのは、誰が見ても分かる。そんな勘吉を見ていると、男だったらつい妬みたくなるのはしょうがない。
「この色男が!」
 吾作は県道の側溝に勘吉を突き落としてやろうかと、本気で考えた。
 やがて、勘吉の家が見えてきた。きっと玖美子が夫の帰りを待っているのだろう。
「じゃあな」
 勘吉は酔いで真っ直ぐに立てない足をふらつかせながら、吾作に別れを告げた。吾作も手を振って、この先にある自分の家へと歩いていく。
 県道から舗装されていない私道へと入った勘吉は、平屋建ての我が家とその後ろにある黒々とした影を見上げた。クマが出たという山林とは場所が違うが、勘吉の家も山のすぐ近くだ。もちろん、クマも棲んでいる。大丈夫だとは思うが、玖美子に注意を促しておくべきかと、勘吉はぼんやりと考えた。
 その勘吉が玄関の引き戸を開けたとき──
「ぐおおおおおっ!」
 突然、大きな唸り声がした。それも家の中から。その唸り声を耳にした勘吉は心臓が止まりそうになった。
「まさか──!」
 家の中にクマがいる。勘吉は恐怖に震えた。
 続いて、ガラスの割れる音が聞こえた。と同時に、「キャッ!」という玖美子の短い悲鳴。勘吉は身を固くする。
 玖美子が危ない!
 勘吉は一旦、玄関から離れると、庭にある納屋へ駆け込んだ。トラクターや農作業具をしまってある場所である。ここには他の物もあった。勘吉が今必要とする物が。
 暗闇の中でスイッチを探し出すと、納屋に煌々と電気が点った。そして、奥にあるロッカーへ飛びつく。
 ロッカーは二つ並んでおり、どちらも厳重に施錠がしてあった。焦っていたせいで、なかなか鍵が開かない。こうしている間にも玖美子が。勘吉はもどかしげに指を動かし、何とかロッカーを開けた。
 ロッカーの中には散弾銃があった。勘吉は猟友会のメンバーで、ライセンスを取得しているのだ。
 勘吉はさらに隣のロッカーを開け、中に保管してあった散弾を銃に装填した。これまでもクマ狩りに参加したことはあるが、勘吉自身はまだクマ相手に発砲したことはない。果たして、自分に撃てるか。
 躊躇している暇はなかった。今は一刻を争うときなのだ。
「玖美子、今行くぞ!」
 勘吉は銃のセーフティーを外すと、自宅へ駆け戻った。



 バーン!
 夜気を震わす銃声の音に、吾作は驚いて振り返った。まさかと思い、勘吉の家へ取って返す。
 吾作が辿り着くと、玄関は開け放たれたままだった。「いやああああああっ!」という女の泣き叫ぶ声がする。吾作は転がり込むように中へ上がった。
「勘吉! クマか!? クマが出たのか!?」
 吾作は居間の入口で散弾銃を持ってたたずむ勘吉を見つけ、勢い込んで尋ねた。
 しかし、勘吉は荒い息を繰り返すだけで、何の反応も返さなかった。何かを凝視している様子だ。中からは玖美子と思われる女性のすすり泣く声。吾作はたまらず中を覗き込んだ。
「──!」
 そこには凄惨な光景があった。布団の上で血塗れになって絶命している裸の若い男。勘吉の仕業だ。スリップ姿の玖美子がしゃがみ込んで泣いている。その横には卓袱台があって、ビール瓶と玖美子の不注意で割れたグラスが散らばっていた。
「ざまあみやがれ!」
 酔っぱらって大イビキをかいて寝ていた間男をクマの代わりに撃ち殺し、勘吉は興奮さめやらぬ様子で息巻いた。


<END>


壁紙提供=素材屋 flower&clover


RED文庫]  [新・読書感想文