古びた駅舎を出ると、そこに人影はなく、ただ一台のタクシーが停まっていた。バス停もあったが、時刻表を見ると次のバスまで一時間近くある。私は仕方なくタクシーに近づいた。
ところが私が近づいても、タクシーの自動ドアは開かなかった。運転席を覗き込むと、倒したシートの上で運転手が居眠りをしている。どうやら客待ちをしていたというよりも、単に昼寝をしていたようだ。
私が軽くドアのガラスを叩くと、運転手はのそのそと起き出した。
「どちらへ?」
「N村まで」
私はタクシーに乗り込みながら、運転手に行き先を告げた。運転手は帽子をかぶり直すと、タクシーを走らせ始めた。
私は後部座席から外の景色を眺めた。目に飛び込んでくるのは、緑鮮やかな山々ばかり。逆に言うと他には何もない。民家もまばらで、駅前と同じく住民の姿は見受けられなかった。
「変わらないな」
私は景色を見ながら、思わず呟いていた。すると、今まであくびを噛み殺していた運転手が、バックミラー越しに私の方を見る。少しは客である私に興味を持ったようだった。
「お客さん、見慣れない顔ですが、以前、こちらに?」
「ええ、十年前に。といっても、ここにいたのも、ほんのわずかな間だけだったんですが」
「へえ、十年前ですか」
運転手は山間の道路を走りながら、どこか遠い目をした。
私はバックミラーで、運転手の顔を観察した。四十過ぎか。歳は私とそんなに変わらないと思われるが、頭には白いものが混じり始め、どこか疲れたような顔つきをしている。昼寝をしていたせいなのか、それとも他に原因があるのか、目は腫れぼったく、赤く充血していた。とにかく、かなりくたびれた印象を受ける。助手席の前に提示してる身分証の写真を見ると、そちらは古いせいなのか、ずっとまともに見えるのに、今はまるで別人のようだった。
「それにしても懐かしい。何もかも、十年前のまんまだ」
私は運転手に話しかけるわけでもなく言った。
運転手はチラチラとこちらを覗いてくる。
「今日はどうしてこちらへ? ここは観光地じゃなく、ただの農村ですよ。それもかなりくたびれた、ね」
自嘲気味に運転手は喋った。
私は再び車外へ視線を移した。
「ええ、知っています。ただ、十年前のことをふと思い出しましてね」
「十年前……」
運転手は息を呑むように呟いた。
私は車窓に流れる山を眺めながら、当時のことを思い出していた。十年前が想起されると、何となく頭痛を覚える。私は決して、美しい想い出を抱いて、この地を再訪したわけではない。
すると運転手は声を絞り出すようにして、
「じゃあ、お客さんはあの事件を憶えていらっしゃるので?」
と私に尋ねてきた。
私は、一瞬、ドキッとした。まさか、十年も前の事件を口にするとは。いや、こんな小さな農村で、あれだけ大きく取り上げられた事件は他にないはず。N村の地を、一躍、全国区にした大事件だ。ならば、事件の記憶がまだ残っていたとしても不思議ではないか。
私は神妙な面持ちでうなずいた。
「もちろん、憶えていますよ。あの無惨で痛ましい事件を」
十年前、N村にて十歳の女の子が殺された。どうやら犯人は、いたずら目的で誘拐し、抵抗されたので殺したらしい。当時、地元警察は懸命の捜査を行ったが、容疑者すら絞り込めず、事件は迷宮入りとなった。もちろん、まだ時効は成立していないので、捜査は細々ながら続けられているが、次第に事件は風化しつつある。だが、ここに一人、あの事件のことを憶えている男がいようとは。
「確か、殺された女の子にはすでに母親がおらず、父親が一人で育てていたとか。ご存じでしたか?」
「ええ」
運転手の話に、私は首肯した。あの頃、ワイドショーではそのことが取り上げられ、かなり世間から同情を集めたものだ。被害者の父親は、独自で犯人を逮捕しようと奔走したらしい。今もその父親は犯人探しを続けているのだろうか。
「同じ村の人間として、あの父親の姿は見ていられなかった。とても気の毒でね。いっそ気でも触れてしまった方が、どんなに楽だったか」
「………」
「あなたに、あの父親の嘆きと苦しみが分かりますか?」
「………」
私は黙り込んだ。十年前のあの事件。それで苦しんでいるのは私も同じだ。
やがて進行方向に、きれいなおむすび型の山が見えてきた。
「ほら、見えてきましたよ。あれが久利山。殺された女の子の遺体が放置されていたところです」
「………」
運転手に促され、私は久利山を見た。やはり、ここも十年前と変わっていない。当時の記憶が甦ってくる。
ふとバックミラーを覗くと、運転手が熱に浮かされたような目で、こちらを見ていた。その異常な様子に、私はギョッとする。
「う、運転手さん?」
「お客さん……殺された女の子の名前をご存じですか?」
「え? ええ。確か、鈴原瑶子ちゃんですよね?」
「! ──お客さん、どうして名前まで憶えているんです!?」
突然、運転手は声を荒げた。タクシーのスピードが上がり、運転が乱暴になる。私の身体は後部座席で浮き上がった。
「なっ! いきなり何を!?」
「お客さん、おかしいじゃないですか!」
「な、何がだ?」
「十年ぶりにこの村へ来たって人が、鈴原瑶子の名まで憶えているなんて!」
「そ、それは──」
私は言い淀んだ。そのとき、もう一度、運転手の身分証が目に入る。
「あなた、十年前の事件のこと、何か知っているんじゃないですか!?」
「バカなマネはやめるんだ、鈴原さん!」
私が身分証に書かれてあった苗字を口にすると、運転手は急ブレーキをかけた。私は前のシートに頭をぶつけそうになるのを何とか堪える。
運転席では“鈴原正敦”がハンドルにもたれかかるようにして、泣き崩れていた。
「鈴原さん……」
私は手動でドアを開けると、外に出て運転席の鈴原に声をかけた。
「お客さん……あんた、一体、何者だ?」
タクシー運転手の鈴原は、私の方へ顔を向けると、かすれた声で尋ねた。
私は懐からバッジを取り出した。
「私は十年前、瑶子ちゃんの事件を捜査していた刑事だ。あのとき、私は事件が解決しないまま、異動になってしまった。あの事件は今でも気がかりでね。ふと思い立って、こうして訪れたわけだ」
「そうですか……刑事さんだったんですか……」
鈴原は大きく息を吐き出すと、泣きはらした顔を上げた。そして、両腕をそろえて、私へ突き出す。
「もう限界です。どうか私を逮捕してください。姪の瑶子を殺したのは私です。瑶子が死んでからの兄は、とても見られたものじゃありませんでした。でも、だからといって名乗り出ることも出来ず……。十年間、私は苦しみ続けました。生き地獄も同然です。もう疲れました。これで終わりにしてください」
鈴原正敦は十年前に起こした姪殺しを自供した。
私はコートのポケットから手錠を取り出し、十年前の事件に終止符を打った。
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