廊下を曲がったところで、我妻正裕は思わず足を止めた。まずいものを見てしまったという後悔の念が湧き上がる。だからといって、すぐに視線を逸らすことも出来なかった。
放課後、多くの生徒が帰った高校の廊下。窓から強い西日が射し込み、世界を滲んだオレンジ色に染め上げている。
その廊下の突き当たりに、同じクラスの沢口江里香と英語教師の土方がいた。教え子と教師。であるはずなのに、あろうことか、二人は口づけを交わしていた。
江里香は、最近、正裕のクラスへ転校してきた女子生徒だ。聞いた話ではフランス人の母親を持つハーフだとかで、まだ十六、七にも関わらず、時折、大人びた表情を見せる。それこそ、同学年の女子など霞んでしまうほどの美少女だ。多くの男子生徒同様、すっかり正裕もそんな江里香に心を奪われていた。
彼女なら、ボーイフレンドなど、きっと選び放題に違いない。その相手に自分が、と正裕も夢見ることはあるものの、現実はそううまくいかないと分かっている。しかし、よりにもよって、江里香のキスの相手が、あの土方とは。正裕は激しい嫉妬と同時に、目の前が真っ暗になるような幻滅を禁じ得なかった。
英語教師の土方には悪い噂が立っている。何人かの教え子と関係を持ち、中には妊娠させた女子生徒もいたそうだ。その女子生徒は、中絶を余儀なくされた上、自殺未遂を図ったという。
もちろん、それは生徒たちの間で囁かれる噂に過ぎず、学校や父兄の間で問題になっているわけではない。だが、普段、学校で女子生徒を見る土方の目は、まるで獲物を物色するようだと、正裕は常々、感じており、噂の信憑性は高いと考えていた。
その土方と、まさか江里香が。しかも、江里香の方からキスを求めたらしく、土方は首へすがりつくようにしている彼女に、少し戸惑っているように見えた。
どれくらい長く口づけを交わしていただろうか。ようやく江里香が唇を離した。そして、土方に艶然と微笑む。それはとても高校生の少女が見せる仕種とは思えない。それを目撃していた正裕は、怖気立つほどゾクリとした。
「ヤだ、先生ったら。生徒にコクられたことなんて、これまでにもあるんでしょ?」
江里香が悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「あ、ああ」
しかし、放課後とは言え、さすがに学校の廊下でこんな大胆な行為をしたことはなかったのだろう。土方は誰かに見られなかったか、心配になって辺りを見回した。
そこで正裕もすぐに隠れれば良かったのだろうが、あまりにショッキングな場面に出くわして、逃げるタイミングを失っていた。棒立ちになっている正裕を見つけ、土方がギョッとする。その土方の様子を見て、江里香も正裕に気がついた。
そのときになって、ようやく正裕は廊下の角に引っ込んだ。もう手遅れであることは分かっている。それでも、キスしていたところを見ていたと、江里香に知られるのが恥ずかしかった。
正裕は足早に、その場から離れた。まるで自分が江里香とキスしたみたいに、顔は赤く火照っている。柔らかい唇の感触が幻となって、正裕には感じられた。
「待って、我妻くん」
呼び止められた。江里香だ。正裕は、彼女が転校してきてから、会話らしいものも交わしていないのに、自分の苗字を憶えていてくれたことに驚いた。つい、立ち止まってしまう。だが、さすがに赤面した自分の顔を江里香に向けられなかった。
江里香は正裕の腕をつかむと、正面に回り込んだ。そして、正裕の顔を覗き込む。江里香は愛くるしく微笑んでいた。
「ねえ、我妻くん。今の、見てた?」
江里香に質問され、正裕は答えに窮した。口調は厳しくない。むしろ優しい。果たして、何と答えるべきだろう。正直に言うべきか。それとも、見て見ぬ振りをするべきか。
正裕が黙っていると、江里香は、
「やっぱり見てたんだ。困ったなあ」
と断じた。様子のおかしい正裕を見ていれば、誰だって察しはつく。
正裕は慌てた。
「い、いや、その──僕は誰にも喋らないから! ほ、ホントだよ! 約束する!」
と必死になって、江里香に信じてもらおうとした。土方には嫉妬を覚えるが、江里香が困るようなことをするなんて、正裕には考えられないことだ。
すると江里香は、
「ふーん」
と言って、まじまじと正裕の顔を見つめた。こんなに近い距離で、江里香の顔を見たことはない。これまでは同じ教室にいても、一メートル以内にすら近づけなかった。それが今、互いの息がかかりそうなくらいまで急接近している。目の前にいる江里香のあまりの可愛さに、正裕の心拍数は急上昇した。
「私、我妻くんのこと、よく知らないからなあ。信じていいかどうか」
「し、信じてよ!」
「じゃあ……」
江里香の顔が急に近づいてきた。目をそっと閉じる江里香。正裕はどうして江里香が顔を近づけてくるのか分からず、避けることも忘れた。
次の瞬間、正裕は初めてのキスを味わった。それも相手は憧れの沢口江里香。正裕は頭が痺れたようになった。
江里香は可愛い顔に似合わず、大胆にも正裕の口の中に舌を差し入れてきた。正裕は抵抗できず、江里香の舌を受け入れる。舌と舌が触れ合った。
正裕はキスに夢中になった。欲望のままに舌を動かす。呼吸をするのすら忘れた。
そんなとき、正裕は口の中に異物が混入するのを感じた。それは小さく、まるで薬のカプセルに似ている。しかし、それも一瞬のこと。江里香とキスしているうちに、正裕はその異物を呑み込んでしまった。
不意に江里香が唇を離した。正裕は急に現実へ引き戻される。目を開けると、はにかむように微笑む江里香の顔があった。
「今のは口止め。これで我妻くんも秘密を守らなきゃならなくなったでしょ?」
「う、うん……」
江里香の言葉が、すぐには頭の中に入ってこなかった。正裕はぼーっとした様子で、立ち去る江里香を見送る。
「バイバイ、我妻くん」
正裕はいつまでも、遠ざかっていく江里香の後ろ姿を見つめた。
翌日、学校では大事件が持ち上がり、朝から授業どころではなかった。
「聞いた? 英語の土方先生、昨日、死んじゃったんだって!」
「そうそう! 何でも毒を盛られたそうよ! 怖〜い!」
「警察によると、青酸系の毒物なんだって!」
「えー、私はトリカブトのような植物性の毒だって聞いたよ!」
「これはハッキリ言って天誅ね! 土方先生、何人もの女子を泣かせてきたもん!」
「えっ、あれって単なる噂じゃないの?」
「知らないの!? 学校側がもみ消してたらしいけど、自殺未遂を図った娘の親が乗り込んできたりして、凄かったんだから! 結局、誰が妊娠させたのか特定できなかったらしくて、うやむやになったみたいだけどね」
「そう言えば、ウチのクラスの我妻くんも死んじゃったらしいよ!」
「ウッソー!? ホントにー!?」
「我妻くんも殺されたの?」
「まっさかー! 偶然でしょ、いくらなんでも!」
「そ、そうだよね。二人も殺されるわけないよね。土方先生はともかく、あの人畜無害な我妻くんが何かをやったってワケじゃないし」
「あっ、江里香! アンタも聞いた? 土方先生の話?」
「うん。警察やマスコミも来ているみたいね」
沢口江里香はそう言うと、普段通りに自分の席に着いた。そこへちょうど、江里香の携帯電話にメールが届く。江里香は騒がしいクラスメイトたちの目を盗むように、着信メールを確認した。そして、素早く返信メールを打つ。
『任務完了。次の司令を待つ』
美しき暗殺者・沢口江里香は返信を完了すると、すべてのメッセージを消去し、携帯電話を鞄の中に滑り込ませた。