会社を出た途端、携帯電話が鳴って、井筒宜也は舌打ちした。これから営業に出ようかという矢先である。イヤな予感がしつつ、誰からの着信か確かめた。
「………」
悪い予感というものは、なぜか当たるものだ。井筒は舌打ちした。相手は周防廉子。井筒の会社に出入りしている保険の勧誘員だ。
廉子は二ヶ月ほど前、前任者を引き継いで、井筒のいる営業部に顔を見せ始めた。それまで井筒は保険の勧誘を忙しいからと理由を付けて、とにかく逃げ回っていたのだが、新しくやってきた廉子の勧誘は執拗で、ほとほと参っていたところだ。
とにかく井筒へ会いに、毎日、会社へやって来るのは当たり前。まだ二十五と若い井筒に、仕事中も昼休みもお構いなしに、あれやこれやと保険を勧めてきた。井筒が営業で外回りをしているときでも、帰ってくると必ず保険のパンフレットと名刺が机の上に置かれている始末だ。それでも無視を決め込んでいると、どこで知り得たのか、井筒の携帯電話にまでかけてくるようになった。これではまるでストーカーだと上司に訴えると、ここの保険会社とは昔からの付き合いがあるからと取り合ってもらえず、このままではノイローゼになるのではと頭を悩ませていたところである。
廉子が来るたびに、井筒は保険の加入を断り続けた。まだ若い井筒には、万が一のときに必要という保険がピンと来ないからだ。井筒は至って健康で、ここ数年は風邪も引かないし、ケガだって注意していれば平気のはず。そんな、起こるか起こらないか分からないときに備えてお金をかけるよりは、今の生活をどれだけ充実したものにするかに使った方がマシだというのが井筒の考えだった。
少しは邪険にすれば、廉子も諦めるかと思ったが、井筒の予想に反して、保険の勧誘はよりしつこさを増していた。
そんな廉子からの電話に、井筒は電源を切ってしまおうかとも思ったが、現代サラリーマンに携帯電話は必須ツール。大事な連絡を受けられなかったら、それこそ大変だ。
今日こそは断ってやる。保険になど入る気はさらさらないと。井筒はそう決心し、電話に出た。
「もしもし」
「あっ、井筒さんですか? どうも、W生命保険の周防です。いつもお世話になっております。お忙しいところすみません。ちょっとよろしいですか?」
何が「いつもお世話になっております」だ。何が「お忙しいところすみません」だ。井筒が営業部として、一日中、どれだけ飛び回っているか、会社に出入りしている廉子だって知っているはずだ。それなのに臆面もなく電話をしてくる白々しさ。能面に似た廉子の顔を思い出し、井筒は頭痛を覚えた。
「今、会社の近くまで来ているのですが、井筒さん、外出中ですか?」
「そうです」
井筒は時間がもったいないので、地下鉄の駅へ向かいながら喋った。
「いつも大変ですねえ、お忙しそうで」
だったら、少しは気を利かせて、電話してくるな。井筒は腹立たしげに早足で歩いた。
「ところで、先日のパンフレット、ご覧いただけましたか?」
「いいえ」
元より、読む気などない。
「井筒さんはまだお若いですし、これから結婚もしなくてはいけませんでしょ? 私どもの『一生安心お得プラン』でしたら、病気やケガで働けなくなっても、一日一万円以上の補償が受けられます。万が一に備えて、少しでも早く加入された方がよろしいかと思うんですが」
「申し訳ありませんが、周防さん。私は保険になど入る気は毛頭ありません」
「そんなこと、おっしゃらずに。もし、病気やケガをしたら大変ですよ」
「心配してくださらなくても結構。そのときはそのとき。自分で何とかします」
「何とかだなんて。そのときになって後悔なさるのは井筒さんなんですから」
「自分で決めたことです。後悔なんてしません」
「まあ」
「第一、保険なんて、あなたたちが儲かるように出来ているんだ。人を心配するかのように振る舞っておきながら、結局は金儲けじゃないですか。それに今、不払いの問題も出てきているでしょ? 正直、信用できないんですよね、保険会社って。だったら、支払う積立金の分を貯金にでも回した方がいいと私は思っています」
「………」
今日こそ言ってやったと、井筒はほくそ笑んだ。電話の向こうでは、あの能面女、どんな顔をしているだろう。
「本当によろしいんですか?」
廉子の声のトーンが、心なしか低くなったような気がした。もう一押しだ。
「ええ、私は断じて保険なんかに入りません」
「どうしても?」
「ええ」
「どんなことがあっても?」
「そうです」
「そう……。じゃあ、仕方ないですわね」
ついにあの周防廉子が諦めたと、井筒は小躍りしそうになった。そのとき──
ドガッ!
大きな激突音がして、井筒の身体は吹き飛ばされた。近くを歩いていたOLが悲鳴を上げる。井筒はアスファルトの道路に叩きつけられながら、自分に何が起きたのか分からなかった。
井筒が歩いていたのは青信号の横断歩道だった。渡ろうとしていた井筒は、突然、左折してきた軽自動車に激突したのである。電話中だった井筒は、まったく車に気づかなかった。
地面に転がった携帯電話から周防廉子の声が聞こえてきた。
「ほら、ご覧なさい。人間、一寸先なんて誰にも分からないでしょ?」
井筒をはねた軽自動車の運転席で、周防廉子がゾッとする笑みを浮かべていた。