RED文庫]  [新・読書感想文



大きな桜の木の下で


 あれだけ春を彩っていた花びらはすでになく、今は目にも鮮やかな緑が空を覆わんばかりに生い茂って、すっかり、この木が桜であったことを忘れさせてしまっている爽やかな初夏。
 放課後、僕は校庭の隅にある大きな桜の木の下へ呼び出され、その相手を待っていた。
 この桜の木には、ひとつの伝説がある。
 いや、伝説というのは、いくらなんでもおおげさかもしれない。ちょっとした言い伝え──もとい、ジンクス、はたまた噂話。
 とにかく、うちの高校の校庭にある古い大きな桜の木の下で、片想いの異性にラブレターを渡すと、二人は両想いになれる、と言われているのだ。
 僕の目の前をバスケットボール部の平尾衛二と生徒会長の椎名あさぎが仲むつまじそうに下校していった。うちの高校で美男美女と誰もが認めるカップルだ。この二人も、この桜の木の下でラブレターを渡したことから交際を始めたといわれている。ただ、想いを打ち明けたのは、平尾の方だとも、あさぎの方だともいわれ、その辺はどうも定かではないのだが、もし、それが本当ならば試してみたいと思わずにいられない。不思議と効果なしだったという話も聞かず、校内には未だに御利益があると思っている者は多いことだろう。僕もそのうちの一人だ。もっとも、それを試すだけの度胸はないけれど。
「先輩」
 校門の方へ歩いていく平尾とあさぎをうらやましく眺めていたら、不意に僕を呼び出した相手に声をかけられた。僕はハッとして振り返る。
 そこに一年下の仁科藍子が立っていた。急いできたのか、少し息が上がっている。上気した顔が僕に向けられていた。
 メガネをかけた藍子は、普段はあまり目立たない女子生徒だが、部活動で一緒になる中、僕は意外と可愛い面があることを知っていた。彼女を見ているだけで、何だか穏やかな心持ちになる。いつの頃からだろう、僕は藍子に対して、ひそかな想いを抱き始めていた。
 その藍子に、まさか僕が呼び出されるとは思わなかった。それも縁結びの桜の木の下に。
 僕は何だかドキドキしてきた。それを藍子に知られないよう、僕は必死に平静を装う。
「仁科くん、何の用だい?」
 最初の名前を呼ぶとき、少し声がうわずってしまった。彼女はそれに気づいただろうか。
 しかし、どうやら彼女も緊張していたようだ。おずおずと僕に近づく。
「あの、先輩……」
 藍子は意を決したように、僕に封筒を差し出した。こ、これは……!?
「お願いです。どうか、読んでみてください!」
 藍子は封筒を僕に押しつけるように渡すと、突然、その場から逃げるようにして立ち去ってしまった。呼び止める暇もない。
 僕は桜の木の下に、たった一人で取り残された。
「………」
 僕は藍子から渡された封筒を開けて、中身を見てみた。それにはまず、こう書いてあった。
『大きな桜の木の下で』
 僕は四百字詰め原稿用紙約三十枚に渡って書かれた、藍子の恋愛小説をパラパラとめくった。そして、小さくため息をつく。
「やっぱりなぁ。彼女がこの僕に、愛の告白なんてするわけないよなぁ」
 文芸部の部長である僕は自嘲気味に呟くと、感傷に浸る間もなく、彼女の書いた作品をチェックし始めた。


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