RED文庫]  [新・読書感想文



乗り換え


「はい、岸田さん。これ、福岡土産の辛子明太子。おいしいよ」
 不意に後ろから声をかけられ、岸田蓉子はハッと我に返った。振り向けば同僚の萩原博樹がさわやかな笑顔で紙袋を差し出している。蓉子はズレかけた黒縁の眼鏡を直しながら、おずおずとそれを受け取った。
「あ、ありがとうございます」
 消え入りそうな声で、蓉子は礼を言った。
 蓉子は、この同じ営業一課の同僚に恋をしていた。実際、萩原は長身でカッコよく、人当たりのいい好青年だ。社内で萩原のことを意識しない女性社員はいないと言ってもいいだろう。今だって蓉子はパソコン画面を眺めながら、ぼんやり萩原のことを考えていたところである。いきなり声をかけられ、ついドギマギしてしまった自分に、蓉子は顔から火が出そうな思いを味わった。
 しかし、蓉子は自分の胸の内を萩原に告白する勇気はなかった。蓉子は自分で言うのもなんだが、容姿に自信がないからである。年齢は二十四歳と若いが、顔はそばかすが目立ち、ややタレ気味の目は、いつも眠っているのかとからかわれるくらい細く、表情に乏しい。おまけに男性をその気にさせるような豊満な胸もお尻もなく、やや痩せてひょろっとした体型は中学生から成長が見られなかった。
 これでは、いくら萩原がうわべだけで女性を選ぶような男ではないといっても、交際を申し込む資格がないのではないかと、蓉子は勝手に思い込んでいた。現に、この福岡出張のおみやげだって、蓉子だけに買ってきたものではなく、課内全員へのものだ。萩原が自分のことを単なる同僚の一人だとしか思っていないことは分かり切っていた。
 それでも蓉子は、萩原への未練を捨てられなかった。
 会社帰り、この半年間、ずっと通っているエステティック・サロンへ寄った。少しでも振り返ってもらえるようないい女になるための投資だ。本当は整形でもして、美人に生まれ変わりたいところだが、別人のようになった姿で会社へ行くことは、さすがにためらわれた。
「岸田蓉子さん。どうぞ」
 名前を呼ばれ、蓉子は一室に通された。ここは大きな部屋だが、ベッドごとにカーテンで仕切られていて、プライベートは守られている。蓉子はせめてそばかすを何とかしようと、フェイシャル・プランに入っていた。
 蓉子を招いたのは、初めて見るセラピストの女性だった。三十代だろうが、かなりの美人である。セラピストは蓉子をベッドの上へ仰向けに寝かせた。
「岸田さん、あなたは身も心も生まれ変わりたいと思ってらっしゃいますね?」
 いきなり初対面で、セラピストはズバリと尋ねてきた。蓉子は自分の心を見透かされたようでドキリとする。するとセラピストは艶然と微笑んだ。
「あなたは今の自分の顔に満足していない。体にも不満がある。そのせいで異性ばかりでなく、誰に対しても引っ込み思案になっているのではないですか?」
「………」
「今よりも、もっと美しくなれれば、あなたは生まれ変われる。そうですよね?」
「で、でも、私、整形とかはちょっと……。そんなことをしたら、周りの人たちにどんな目で見られるか……」
「ええ、分かっていますわ。あなたが突然、別人になってしまったら、周りの人たちは驚くでしょう。でも、あなたも周りの人もよく知っている別人と入れ替わったらどうです?」
「えっ?」
 蓉子はセラピストが言わんとしている意味を理解しかねた。
「あなたが別の人になりすまし、代わって、その人があなたになるんですよ」
 セラピストはそう言うと、隣のカーテンをおもむろに開けた。蓉子は隣のベッドを見て、アッと声を上げそうになる。そこに横たわっていたのは、同じ会社の野沢ちえみだった。
 ちえみは社内でも一番の美人だ。同性にウケは悪いが、男性社員には媚びているせいか、とても人気がある。蓉子も雑誌モデルのようなちえみの容姿にあこがれていた。
 その野沢ちえみが蓉子の隣で眠っていた。それも一糸まとわぬ姿で。女の蓉子が見ても、息を呑むような見事なプロポーションだ。蓉子は思わず喉を鳴らした。
「どうです、素晴らしいでしょう? 私も仕事柄、多くの女性の肉体を見てきましたが、彼女のは格別です。いかがですか? あなたがこの女性になるというのは?」
「私が野沢さんに……?」
 セラピストの言葉に、蓉子は迷った。もし、それが本当に可能ならば、蓉子の夢が実現することになる。しかし、そんなことをして、本当に大丈夫なのか心配だ。
 するとセラピストは蓉子の心の中を見通しているかのように、
「実はこの女性も別人になりたいと願っているのです。そのための費用もお支払いになられて。あなたさえよければ、無料でお二人を入れ替えて差し上げますわ。今後、あなたはこの女性の人生を、この女性はあなたの人生を送るわけです。そう、人生を乗り換えると言ってもいいでしょう」
 女性としてなんの不都合もなさそうなちえみが別人になりたいと願っているとは信じられないことだったが、もし、そう望んでいるのなら、蓉子に異存はなかった。ちえみは蓉子にないものをすべて持っている。それを自分のものにできれば、これまでの日陰の人生が一気に明るいものになるだろう。それこそ萩原とともに歩むことだって夢ではないかもしれない。
「分かりました。お願いします」
 蓉子はセラピストに頼んだ。セラピストはうなずく。
「では、早速、お二人の中身を入れ替えます。目をつむって……」
 言われたとおりに蓉子が目をつむると、まるで暗示にかかったかのように、すぐに眠気が襲ってきた……。



 蓉子は目を覚ました。
 そこは見知らぬ部屋。少し頭が痛んだが、自分に何があったのか思い出す。昨日のことが現実であったのか確かめるため、蓉子は部屋にあった鏡台へと近づいた。
「──っ!」
 驚いた。鏡に写っていたのは野沢ちえみだ。あのセラピストが言ったとおり、蓉子はちえみと入れ替わったのである。蓉子は思わず自分の顔に触れた。間違いない。蓉子はちえみになっていた。
 なんだか急に幸せを手に入れたような気分になった。こんなに高揚したのは生まれて初めての経験だ。蓉子はクローゼットへ行くと、何十着とあるブランドものの洋服の中から、一番おしゃれな服を選び始めた。
 もう今までの人生じゃない。
 蓉子は意気揚々と出勤した。華やかな美貌を持った蓉子を──元々はちえみのものだが──多くのすれ違った男性が振り返っていく。蓉子は颯爽と歩きながら、気分が良かった。
 会社の近くで萩原の背中を見つけた。蓉子は萩原をデートに誘おうと決める。以前なら、そんな勇気など欠片もなかったはずだが、今は自分に自信を持つことができた。
「萩原くん!」
 蓉子は甘えるような声を出し、萩原の腕に絡みついた。萩原はギョッとする。
 大胆な蓉子の行為に驚いただけかと思ったが、萩原の顔はさらに青ざめた。怯えている。蓉子には、その理由が分からなかった。
「どうしたの?」
「は、離してくれ!」
 萩原は蓉子の手を振り払った。思いもかけない萩原の反応に蓉子は呆然とする。すると、いきなり後ろから肩を叩かれた。
「野沢ちえみさんだね?」
 蓉子に声をかけてきたのは見知らぬ男性二名だった。懐から身分証明を見せる。
「警察です。萩原さんよりストーカー被害の届け出が出ています。暑までご同行願えますか?」
「ストーカー!? 違います! 私、そんなんじゃありません!」
 蓉子は気が動転した。なぜ、萩原がそんなことを訴えたのか。
 萩原が心配そうな目つきで蓉子を見ていた。
「大丈夫ですか、萩原さん?」
 そんな萩原を同じく出勤してきた蓉子が気遣った。──いや、それはかつての蓉子の姿をした、野沢ちえみである。
 セラピストの言葉がよみがえった。
『実はこの女性も別人になりたいと願っているのです』
 なぜ、誰もがうらやむ容姿を持ったちえみがそんなことを言ったのか、蓉子は愕然としながら理解した。萩原のストーカーと化したちえみは近づくことが難しくなり、別人になりすましたかったのだ。
 蓉子の顔を持ったちえみは、気分が悪そうな萩原にハンカチを差し出した。何も知らない萩原は、ちえみからハンカチを受け取る。
「あ、ありがとう、岸田さん」
 蓉子は自分がまんまとはめられたことを悟った。
「は、萩原さん!」
 蓉子は救いを求めるように萩原の名を呼んだ。だが、二人の刑事が蓉子を押しとどめようとする。
「とにかく、こちらへ来てください」
「い、イヤです! 私は野沢ちえみじゃない!」
 いくら蓉子が説明しようとしても、刑事たちは聞く耳を持たなかった。当たり前だ。容姿はすっかりちえみなのだから。力尽くで萩原から引き離す。
 そんな濡れ衣を着せられた蓉子を、地味な日陰の女になったちえみが冷笑を浮かべながら見送っていた。


<END>


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