RED文庫]  [新・読書感想文


◆突発性競作企画:再「黒白」参加作品◆

月  光


 コンサートが終わってから、僕は着替えもせずに車を三時間走らせ、山中の湖へ赴いた。
 今日の演奏は我ながらいい出来映えだったと思う。喝采は緞帳が降りてからも長く聞こえていた。でも、残念だったのは、一番聴いてもらいたかったひとに聴いてもらえなかったことだ。空虚な淋しさが僕に満足感を与えてくれなかった。
 車から降りると、煌々とした満月が湖を照らし出していた。僕は蝶ネクタイを外し、胸に冷ややかな夜気を入れる。しんとした静寂は開演前のコンサート・ホールよりも厳粛だ。僕は湖に向かって歩いた。
 真夜中の湖には誰もいない。聞こえるのは小さな波の音と僕の足音だけ。
 湖の波打ち際には、一台のグランドピアノが置かれていた。月という最良の明かりの下、それは幻のように浮かび上がっている。僕は躊躇なく、グランドピアノの前に座った。これからが今夜の本番だ。
 きみのためだけに弾こう。きみが好きだったあの曲を。
 僕はひとつ深呼吸をすると、月光に輝いて見える鍵盤に指を置いた。
 夜の湖に流れるもの悲しい旋律。それは湖を囲む山々にしみわたっていくようだった。
 聞こえているかい。僕の演奏が。
 届いているかい。僕の想いが。
 僕の前から去ってしまったきみを懐かしみながら、最高の演奏をしよう。
 夢うつつの中、僕はピアノを奏でた。ただ、きみのために。
 そんな僕に月は魔法をかけてくれた。光の結晶が蛍のように寄り集まり、ひとつの形をなしていく。
 ああ──
 僕の胸に懐かしさと愛おしさと切なさが去来した。
 僕の隣にきみが寄り添ってくれていた。演奏する僕の肩に優しく手を置き、穏やかに微笑みかけてくれながら。
 戻ってきてくれたんだね。
 言葉には出さなかったけれど、僕の気持ちはきみに伝わったようだった。
 僕の指は、より一層、軽やかに鍵盤の上で踊った。
 ──このまま時が止まってくれればいい。
 月光は僕たちの上に降り注いでいた。


<END>



 突発性競作企画:再「黒白」


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