「ちょっと、日曜だからってゴロゴロしないで頂戴! それに、タバコはベランダかキッチンでって、いつも言っているじゃないの!」
ソファで寝転がっているところを妻の沙枝に見咎められ、宮塚勲はくわえたばかりのタバコを落としそうになった。沙枝が持っていた掃除機の先で勲の尻を叩く。こうなったら仕方ない。勲は寝そべっていたソファから退散した。
「まったく、たまの休みだっていうのに」
沙枝に聞かれないよう、勲は小さく愚痴をこぼし、そのままベランダへと出た。沙枝はまだ文句が言い足りないらしく、一人でブツブツ言いながら、乱暴に掃除機をかけ始める。勲はサッシを閉めて、掃除機の騒音を部屋の中に閉じこめた。
梅雨明けした空は真っ青で、勲は眩しさに目を細めた。こりゃあ、今日は暑くなるなと空を恨めしげに見上げながら、くわえていたタバコに火をつける。
すると、閑静な住宅街には不似合いなエキゾーストノートが轟いた。視線を下に向ければ、隣の家から真っ赤なオープンカーが発進するところだ。運転しているのは、お隣さんの安立エリである。
勲は思わず口笛を吹きそうになった。エリはかなりの美人で、派手なオープンカーもよく似合っている。ちょっと顔立ちからキツめな性格が窺えるが、夫の安立和之と結婚する前は良家のお嬢様だったという話だ。今でも派手な生活ぶりは変わらないらしい。
その夫である安立は、銀行員という肩書きこそあるものの、エリとは不釣り合いに見えるほどうだつの上がらない男だ。そんな安立がどうしてエリという美人と結婚し、立派な一軒家に住んでいられるのか勲には分からない。ただ、やっと三十年ローンを組んで夢のマイホームを手に入れた勲とは、明らかに稼ぎが違うことは確かだが。
「今日も隣の奥様は一人でお出かけか」
勲は、安立とエリが夫婦そろって外出するところなど一度も見たことがなかった。子供がいないことからも、夫婦仲はギクシャクしているのかもしれない。その点、同じく夫婦二人だけでもウチはまだマシだな、などと勲はひとりごちる。
エリが乗ったオープンカーは、住宅街を切り裂くように走り去った。
ようやく静けさを取り戻したと思った矢先、今度は釘を打つような音が隣の家から聞こえてきた。どこか修繕でもしているのかと、勲は隣を覗き込む。
「ああ、安立さん、またやっているのね」
いつの間にか掃除を終えた沙枝がベランダに顔を出していた。
「また?」
勲は妻に尋ね返す。すると沙枝は勲の隣に並んで、同じように安立の家を眺めた。
「最近、休みの日には決まって日曜大工をしているみたいなのよ。こうやってトンカチの音が聞こえてくるわ」
「へえ、日曜大工」
勲は意外だった。うらなりのひょうたんみたいな安立が、そんな趣味を持っているなんて。どちらかというと、一日中、パソコンの前から動かないタイプに見える。
「あなたも家で寝ころんでいるか、パチンコで遊んでばかりいないで、少しは家のこともやってもらいたいわねえ」
そう沙枝がぼやくのを見て、勲は肩をすくめた。やれやれ、やぶ蛇だ。
「へいへい」
これ以上、家にいたら何を言われるか分かったものじゃない。勲はこっそりと外出することにした。
翌朝、家を出た勲は、偶然、隣の安立と顔を合わせた。
「おはようございます、安立さん」
「あ、ああ、宮塚さん。お、おはようございます」
普段から近所付き合いに慣れていない安立は挨拶にもドギマギしていた。つくづく、こんな調子で我の強そうなエリとうまくやっているのか心配になってくる。
二人とも駅の方向が同じなので、勲は珍しく並んで歩きながら話しかけた。
「いやぁ、意外だったな。安立さんが日曜大工をしているなんて」
「えっ?」
安立は必要以上に驚いた表情を見せた。気のせいか、顔色まで青ざめた気がする。勲は不審に思った。
「昨日、聞きましたよ。何かを作っているような音。あれ、日曜大工でしょ? ウチの妻もここのところ、よく耳にするって言っていました」
「あ、ああ、そうですか。宮塚さんのところまで聞こえてしまいましたか。すみません……」
安立は申し訳なさそうに頭を下げた。勲は慌てて手を振る。
「いえ、別にうるさかったということじゃありません。ただ、安立さんが日曜大工なんかしているとは想像もしていなかったので」
「でしょうね。私じゃ、似合わないでしょう」
「あっ、別にそういうつもりでは」
「宮塚さん」
安立は急に改まった。つい二人とも足を止めてしまう。
「このこと……エリには黙っていてもらえませんか?」
「は?」
安立の申し出に、勲は面食らった。
「このことはエリには内緒なんです。お願いします」
勲に向かって、安立は深々と頭を下げた。勲はちょっと戸惑ったが、すぐにそれを了承する。
「分かりました。このことは奥さんに言いません。ウチのヤツにも口止めしておきましょう」
「そうですか! ありがとうございます!」
安立はもう一度、お辞儀をした。
多分、エリへのプレゼントに何かをこっそり作っているのだろう。夫婦仲が冷め切っているのかと思ったが、そうでもないらしい。勲はそう解釈した。
次の日曜日、相変わらず勲は家のソファに寝転び、のんびりとタバコを吹かしていた。今日は寝タバコを注意する沙枝はいない。隣のエリに誘われて、デパートに買い物へ行っているのだ。
「私は奥様のお供よ」
沙枝はそう揶揄しながら出かけていった。
隣からは安立が釘を打っている音がかすかに洩れ聞こえてくる。エリが留守中に作業しなければならないから、なかなかはかどらないに違いない。一体、何を作っているのか、勲はいささか興味を引かれた。
電話が鳴って、勲は電話口に出た。かけてきたのは買い物に行ったはずの沙枝。その声は切迫していた。
「あ、あなた!? 大変なの! エリさんの車がトラックにぶつかって……!」
「何だって!?」
勲は手にしていたタバコを落としてしまった。気が動転する。
「そ、それで、お前にケガは!?」
「私は大丈夫! エリさんに車を回してもらって、待っていたところだったから! ──それよりエリさんよ! トラックとビルの壁に挟まれて大変なの! 今、救急の人が来て助けているけど、すごい手間取っていて……!」
「わ、分かった! ──で、このことは安立さんに!?」
「それが、あなたよりも先に安立さんのところへかけたんだけど、全然、出ないのよ!」
それはおかしい。今も隣からは安立の日曜大工の音が聞こえてくる。安立はいるはずだ。
「よし、オレが隣へ行って知らせてくる!」
勲は電話を切ると、急いで隣へ向かった。相変わらずトンカチの音が響いてくる。勲は玄関のチャイムを押した。
「安立さん! 大変です! 奥さんが!」
しかし、一向に安立が出てくる様子はなかった。勲は訝る。
「安立さん! いないんですか!?」
いつまでも玄関前で逡巡しているわけにはいかなかった。事態は一刻を争う。ドアを引いてみると、あっさりと開いた。勲は勝手に上がり込む。
「安立さん!」
安立はどうやら二階で作業しているようだった。勲は音を頼りに、階段を上る。
「安立さん、奥さんが交通事故に! 入りますよ!」
返事を待たずに勲は安立の部屋に踏み込んだ。そこに異様な光景が飛び込んでくる。
カツン! カツン! カツン!
部屋の中では釘を打つ音が途切れることはなかった。そして、安立が釘を打ちつけているもの見て、勲は戦慄する。それは──
「死ねぇ……死んでしまえ……お前なんか……お前なんか……」
それは安立が悪妻のエリに呪いをかけた何百ものワラ人形だった。