橋本ななちゃんが誘拐されたのは、昨日の午後三時頃のことだ。
幼稚園からの帰り、母親と立ち寄ったスーパーマーケットからいなくなり、当初は迷子として捜索された。残念ながら発見できず、ななちゃんの両親が心配しながらも一時帰宅したところ、家のポストに差出人不明の封筒が投函され、中には一本の家庭用ビデオテープが入っていたという。それが犯人からの脅迫状だった。
「なんだ、神戸。まだ見ていたのか?」
「あ、杉さん」
神戸刑事は後ろからベテラン刑事の杉浦に声をかけられ、モニターから目を離した。神戸が何度も繰り返し見ていたのは、犯人から送られてきた脅迫状のビデオテープだ。オリジナルは当然のことながら鑑識に回されており、神戸が見ていたものはコピーである。そのせいか、画像はかなり劣化していた。
「いや、ずっと気になっていましてね」
「何がだ?」
杉浦は捜査本部に用意されたコーヒーに口をつけながら、若い神戸に尋ねた。
「ななちゃんが描いている絵なんですけど」
ビデオには、犯行を誇示する目的のためか、誘拐されたななちゃんの姿が映っていた。場所はおそらく、どこかの廃ビルか、テナントが入っていない一室。がらんとしたコンクリートむき出しの空間だ。誘拐直後の夕方に撮影されたものらしく、画面の右側から西日が強く射し込み、蛍光灯の明かりもない暗い室内を赤く変色させている。
スパイダーマンのマスクをかぶった犯人はカメラの前に立ち、五千万円を要求していた。ななちゃんの父親は大学病院の外科医で、なんとかかき集めれば、それくらいは出せると言っていたが、それも我が子可愛さのゆえだろう。ただ、取引の方法は、そのビデオで言っておらず、また連絡すると締めくくられていた。
ななちゃんの姿が映っているのは、その画面の左奥だ。幼稚園の制服を着たまま、コンクリートの柱を背に座り込み、スケッチブックのようなものにクレヨンでお絵かきをしている。ななちゃんの母親の話によれば、スケッチブックもクレヨンも持っていなかったので、おそらくは犯人がむやみに騒ぎださないよう買い与えたものだろうとのことだった。実際、ななちゃんは特に不安そうな表情も見せることなく、お絵かきに没頭しているように見える。また、その傍らには、スパイダーマン・マスクの犯人の他に、まるで仮面舞踏会にでも使うような派手で大きめのアイマスクをした人物がいて、ななちゃんの面倒を見ているようだった。華奢な体のラインから女性らしいことがうかがえる。つまり、犯人は少なくとも二人ということだ。
このビデオ映像は、警察によって詳しく調べられていた。場所が特定できるような目印や音はないか、犯人の身体的特徴はいかなるものか。とにかく得られる情報はすべて見逃すまいと精査された。その過程で、ななちゃんがスケッチブックに描いている絵も拡大解析され、画質は粗いが、写真にも起こされたのだ。
神戸は、写真とビデオのコピーを見比べては、何度も首をひねっていた。
「杉さん、ななちゃんが何を描いているのか、それが分かれば、この場所が特定できると思うんですよ。でも、これがよく分からなくて」
「神戸。捜査会議では、おそらく夕陽だろうということになったじゃないか」
杉浦の言うように、ななちゃんの絵を拡大した写真の中心には、赤とオレンジが混ざった大きな丸が描かれている。しかもビデオの映像から、ななちゃんが西日の射しこむ窓に向って座っていることから、その外の光景だろうという推察が捜査員たちの間でなされた。
しかし、神戸はどうしても釈然としなかった。
「夕陽は分からなくもないのですが、問題はこの水色の線です」
神戸が指で示した線は、夕陽を囲うようにして、幾本も縦横に走っていた。まるで夕陽を閉じ込める檻か何かのように見える。普通、夕陽を描くのに、こんなものまで付け加えるだろうか。
「窓じゃないか? ななちゃんはビルの外を見ながら描いているわけだし」
杉浦は顎を撫でながら、納得できそうな答えを出した。しかし、神戸はまだモヤモヤが晴れず、同意しかねる。窓なら夕陽を囲う枠だけで良くはないだろうか。それをどうしてわざわざ、マス目に区切るような線を描いているのか。
「とにかく、いつまでもここで考え込んでいるわけにもいくまい。犯人は、この脅迫状のビデオをななちゃんの誘拐直後に撮影している。そのことから、この場所は誘拐された現場からそう遠くはないところ。そして、夕陽が射しこむ西側に大きな窓があるビルの中だ。今のところ、犯人から具体的な金の受け渡しについて連絡はないが、取引が難しいとなったら、ななちゃんの身が心配だ。我々も現場近辺をしらみつぶしに調べるぞ」
「分かりました」
神戸は不承不承ながらうなずいき、ビデオデッキの前から立ち上がって、杉浦とともに捜査に出かけた。
覆面パトカーで都内を走りながら、神戸と杉浦は条件に該当しそうなビルを捜した。
「ところで、誘拐犯の目星がついたって話は聞いたか?」
「えっ!? 本当ですか?」
杉浦の言葉を耳にし、神戸はハンドルを切りながら驚いた。
「ああ。あの脅迫状のテープに、二人の犯人が映っていただろう? 声は覆面をして、さらに機械で変えてあったようだが、ななちゃんの父親である橋本将治に確認したところ、関根宏則と関根宏美という姉妹ではないかということだ」
「関根?」
杉浦は背広の内ポケットから一枚の写真を取り出した。年老いた女性がベッドの上でカーディガンを羽織って起き上がり、その子供らしい若い男女が寄り添うようにしている写真だ。
「二人の母親は、橋本氏の患者だったそうでな。脳腫瘍の手術をしたのだが、その甲斐なく亡くなられたそうだ。なんでも、術中に思いがけなく悪化したらしくてな。しかし、事前に心配のいらない手術だと聞いていた宏則と宏美は、橋本氏のミスだと病院側を訴えていたそうだ」
「でも、病院側は手術ミスを認めなかった――というわけですね?」
「その通り。兄妹は、かなりしつこく病院に食い下がったらしい。執刀した橋本氏に悪意を抱いても不思議ではないな」
「それで今回の誘拐を?」
「うむ。まだ、確証が得られたわけではないが、ビデオに映っていた女の方、なんとなく関根宏美に似ていると言うんだ。アイマスクをしていると言っても、口元や頭髪は隠していないからな。今、関根兄妹の方へは若松たちが動いている」
「これで一件落着になればいいのですね」
「だといいがな」
「あっ!」
そのとき、運転していた神戸は、不意に強い光を直視してしまい、眩しさに目を細めた。この冬の時季、夕陽は強烈なオレンジ色を放つ。今はちょうど、ななちゃんが連れ去れたと思われる時間帯と同じで、夕陽が運転手の視界に入る低さになっており、神戸が思わず声に出してしまったのも無理からぬことだった。
ところが、神戸は西に向かって車を走らせていたのではなかった。それでいて目に飛び込んできた夕陽の正体とは――
「杉さん!」
神戸はひっかかっていた疑問が急に解けて、興奮気味に意気込んだ。杉浦はびっくりする。
「な、なんだ!?」
「分かりましたよ! ななちゃんが描いていた絵! 我々は危うく騙されるところだったんです!」
「なんだって!?」
「夕陽は西に見えるとは限らないんですよ!」
「はあ?」
夕陽は西に沈むのが当り前じゃないか、と杉浦は思った。最近の若者は、そんなことも知らないのか、と眉をひそめたくなる。
しかし、そんなこともお構いなしに、神戸は小躍りしたくなるような喜びを足下のアクセルで表現し、助手席にいた杉浦の寿命を十年ほど縮めた。
神戸が目星をつけた廃ビルのそばで車を降りると、ちょうどコンビニの袋を持った若い男が中へ入って行こうとしているところだった。一般は立ち入りが禁じられている場所だ。不審に思っていると、周囲の様子をうかがおうとした男の横顔がチラッと見えた。
「関根!」
それは間違いなく、杉浦が見せてくれた写真の関根宏則だった。宏則は名前を呼ばれてギョッとした様子を見せる。すぐに神戸たちが刑事だと察したのだろう。コンビニ袋を放り出して、廃ビルの中に逃げ込んだ。
「くそっ! やっぱり、ヤツが犯人<ホシ>か! ――神戸、不用意に名前を呼ぶな!」
「すみません! 追いかけます!」
ベテランの杉浦に叱責され、若い神戸は初歩的なミスを恥じた。神戸たちが第一に優先しなくてはいけないのは、誘拐されたななちゃんの保護だ。もし、追い詰められた宏則がななちゃんを盾にしようとすれば、その命が危ない。
神戸は失敗を帳消しにしようと、懸命に宏則を追った。廃ビルでエレベーターが動いているはずもなく、ひたすら階段を駆け登るしかない。外から見た感じ、廃ビルは七階か八階くらいの高さだったはずだ。
耳を澄ますと、宏則の足音がやけに反響して聞こえた。まだ上に登るつもりかと、神戸は舌打ちする。最初、二段飛ばして階段を駆け上がっていたのが、三階に達した頃には早くも鈍り始めていた。
「宏美、逃げろ!」
宏則が大声で、妹の宏美に警察が踏み込んできたことを知らせた。もし、宏美にななちゃんを連れて逃げられたら厄介だ。神戸は、益々、自分の軽はずみな失敗を悔いた。
最上階。神戸は宏則の後ろ姿を見失った。逃げる足音は聞こえるが、あちこちから聞こえる反響が正しい方向を惑わせる。神戸は脅迫状のビデオテープを思い出した。
「夕陽が射し込む部屋!」
神戸は躊躇なく、夕陽が見えるはずの西側ではなく、東側の部屋を捜した。
東側、一番奥に神戸は飛び込んだ。推理どおり、そこに関根兄妹と誘拐されたななちゃんがいた。そして、東側に面した窓からは、まばゆいばかりの西日が射し込んできている――
この廃ビルの隣には、まだ真新しいオフィス・ビルが建っていた。それも全体的に鏡面状態になったガラス張りのビルが。
西に沈もうとしている太陽は、隣のオフィス・ビルの鏡のようなガラスに反射して、東向きの廃ビルの中に射し込んでいるのだった。ななちゃんが夕陽の絵に描いていた檻のようなマス目は、窓の外に見えるビルを表現していたのである。
ななちゃんは今まで眠っていたのか、眠い目をこすりながら、関根宏美に抱きかかえられていた。そこへ宏則が駆け寄る。
「来るな! このガキがどうなってもいいのか!?」
関根宏則は追ってきた神戸に脅し文句を言い放った。飛び出しナイフを手に、ななちゃんを抱いた宏美に近づく。だが、宏美はそんな兄から遠ざかろうとした。
「やめてよ、お兄ちゃん! もう、あきらめよう!」
幼い子供を手に掛けたくないという罪悪感に苛まれたのか、宏美は兄を説得しようとした。しかし、宏則は往生際が悪い。
「宏美! 忘れたのか!? 母さんは、あのヤブ医者に殺されたんだぞ! 大事なものを奪われた痛み、あいつにも思い知らせてやるんだ!」
「だからって、この子には何の罪もないでしょ!」
「うるさい! お前は母さんの仇を討ちたくなのか!? そいつをこっちに渡せ!」
「イヤッ!」
宏則は強引に妹の手からななちゃんを奪った。宏美は突き飛ばされ、その場に倒れ込む。それを目撃し、なおかつ乱暴に扱われたななちゃんは、火がついたように泣き始める。宏則は、そんな幼女の顔の前に飛び出しナイフを突きつけた。
「ば、バカなマネはよせ、関根! もう逃げられないぞ!」
すっかり自暴自棄になった宏則を、どうにか落ち着かせようとした神戸だが、その方法こそが問題だった。手をこまねいているうちに、宏則はななちゃんを人質に取ったまま、裏へ逃げようとする。多分、裏階段があるのだろう。
「オレはあきらめねえぞ! オレは必ず復讐してやるんだ! そうしなきゃ、死んだ母さんが浮かばれない!」
「やめてったら、お兄ちゃん!」
宏美は立ち上がると、ななちゃんを取り返そうとした。しかし、宏則は右手のナイフを振るう。あっ、と宏美が声をあげ、右手を押さえた。
宏美は右手を切られていた。血が床にしたたり落ちる。それを見た宏則は、一瞬、ひるんだようだったが、すぐに血走った眼で神戸と宏美を睨み、出口へとじりじり後退した。
神戸は発砲すべきか躊躇した。拳銃は携帯してきているが、今、撃てば、人質となっているななちゃんに命中してしまう恐れがある。やっぱり銃は使えないと断念した。
そうこうしているうちに、宏則は裏階段へと出た。ここから逃走しようというのだ。
だが、階段を降りようとした宏則の足は、ぎくりと止まった。
「やれやれ、年寄りにこの階段はキツいて」
息も切れ切れにぼやきながら上がってきたのは、杉浦刑事だった。犯人を追いこむ常套手段、挟み撃ちだ。これで宏則は退路も断たれたことになる。
「く、くそぉ!」
その刹那、宏則の注意は階下の杉浦に向けられた。今だ、と神戸が動く。しかし、それよりも早く宏則の妹、宏美が動いていた。
神戸よりも近くにいた宏美は、負傷した右手にも構わず、兄の手からななちゃんを取り戻した。身を挺すように、ななちゃんを守りながら。ななちゃんも自分から宏美に抱きつく。おそらくは監禁中、ななちゃんの面倒を見ていたのは宏美の方だったのだろう。幼い少女は誘拐犯の女性を心から信頼していたのだ。
「ななちゃん!」
「おねえちゃん!」
二人は抱き合っていた。
ななちゃんを取り返された拍子に、宏則は運悪くバランスを崩した。慌てて体勢を立て直そうとしたが、身体が倒れていく方向には階段が。身を支える手段もなく、宏則は階段を転げ落ちた。
「うわああああああああっ!」
宏則は杉浦がいる踊り場まで落ちた。そして、頭を強く打ちつけ、そのまま気絶してしまう。
こうして、橋本ななちゃん誘拐事件は一件落着した。
二日後、神戸は関根宏則が入院した病院を訪ねた。
階段から転落した宏則は、打ち所が悪く重傷で、手術を要したのである。神戸は、今朝、宏則の意識が戻ったとの連絡を受けていた。
病室の外で見張っている制服警官にバッジを見せながら敬礼し、神戸は病室に入った。
ベッドで頭に包帯を巻いて寝ていた宏則は、急に不機嫌そうな顔になった。神戸が来たからではない。一緒に入室した人物を見たからだ。
「何しに来やがった?」
憎悪のこもった眼を向けている相手は、ななちゃんの父親、橋本将治だった。医師という仕事上、患者やその家族に感情をぶつけられることもあるのだろう。神戸には、橋本医師がとても冷静を保っているように見えた。
「術後の経過はどうかと思ってね」
橋本医師は普通の患者に接するのと同じ態度で言った。
「術後の経過だと?」
「関根。お前の手術を買って出たのは橋本先生なんだぞ」
神戸は何も知らない宏則に教えた。宏則は喜怒哀楽が複雑に入り混じった表情になる。事実、そういう気分であっただろう。
「……なんでだよ? どうして、オレなんかを助けた? オレはあんたの娘を誘拐し、殺そうとした男だぞ!」
「ああ。君のやったことは許せない。娘がちゃんと無事に帰ってきても。あの娘を怖い目に遭わせたことは紛れもない事実である以上は」
「それなのに、かよ? ――あっ、ひょっとして、オレの母さんを手術ミスで死なせてしまい、せめてもの罪滅ぼしとか考えたのか? 何を今さら――」
「そんなんじゃない。君のお母さんのことは残念だった。当初は安全な手術だと思っていたが、術中に急変してしまったのだ。医療は決して万能ではない。こういうときほど、私は医師の無力さを思い知るよ」
「じゃあ、何だよ!? 母さんの死が不可抗力だとしたら、どうして逆恨みして、あんたの娘を同じ目に遭わせてやろうとしたオレを助けたんだ!?」
宏則は怒気をはらんだ眼で、橋本医師を睨みつけた。それを橋本医師は真っ向から受け止める。神戸が口をはさむような雰囲気ではなかった。
やがて、ふっと橋本医師から緊張を解いた。
「それは君が娘の恩人の兄だからだ」
「――っ!?」
「君の妹さんは、兄である君に逆らってまで娘を助けてくれた。彼女がいなければ、今頃、娘はどうなっていたか。娘も君の妹さんを『おねえちゃん』と言って、慕っていたようだ。そんな恩人の兄がケガをして、何もしないわけにはいかない。君は彼女にとって、もうたった一人になってしまった肉親なんだからね。君も、もっと妹さんのことを考えてあげて欲しい」
橋本医師の言葉を聞いた宏則は、身体を折るようにして顔を伏せた。その肩は震え、口からはかすかな嗚咽が漏れる。たった二人だけの兄妹。その将来は、つまらないことで傷をつけることになった。これが先立った母の望んだことであっただろうか。
「宏美……母さん……」
自分の愚かさに気づいた宏則のむせび泣きに、神戸も胸を熱くするのだった。