朝のホームルーム、教室はにわかにどよめいた。
担任の古谷につづいて入ってきた見知らぬ美少女。ウチの高校の制服を着ているところを見ると、どうやら転校生らしいということは分かったが、何より、その大人びた表情とすらりとした手足の長いスタイルに、オレは一発でKOを喰らった気分だった。彼女を見て、何も感じない男がいたら、どうかしているとしか思えない。クラスにいる女子が、同じ女であるという事実を疑いたくなった。
ひとまず、朝の挨拶を終えてから、古谷はやおら黒板に名前を書き始めた。
『真神レイ』
「今日から、このクラスの一員になる転校生だ」
「真神レイです。よろしく」
笑顔もなく、言葉少なに、レイは軽く会釈した。緊張しているのか、と思ったが、そういうわけでもないらしい。どうやら、これがキャラのようだ。クール・ビューティ。それとも流行りのツンデレか。
「席は――御子柴、お前の後ろ、空いていたな?」
いきなり古谷に名前を呼ばれ、オレは慌てて姿勢を正した。これからお近づきになろうかという転校生に、でれっと鼻の下を伸ばしているところなど見せられない。オレは好感度をアップさせようと人懐っこい笑顔を作りながらうなずいた。
すると、レイがオレを見た。そして、スッと右手を上げて、ぴたりとオレを指差す。
「見つけた」
レイは微笑むでもなく、無表情のまま、一言、呟いた。
真神レイ。果たして何者なのか。
昼休み、オレは屋上でカニパンを齧りながら、転校生のことばかり考えていた。
彼女は確かにオレを指差し、「見つけた」と言った。どうして、そんなことを言ったのか。彼女とは今日が初対面のはずで、面識はないはずだ。あんな美少女を一度でも見かけていれば、絶対に憶えているはずだし、小、中学校はおろか、幼稚園の頃まで遡っても、真神レイという名に心当たりはない。彼女がオレのことを知っているはずがなかった。
脚だけになったカニパンをパック牛乳で流し込むと、丁度、レイが屋上へ現れた。ここは直接、本人に訊いてみるか。オレは気さくにレイに話しかけた。
「やあ。まだ、自己紹介がまだだったよね。オレ、御子柴。よろしく」
オレはさりげなく右手を差し出して、握手しようとした。しかし、彼女は応じない。ちぇっ、シカトかよ。
「ところでさ、オレたち、どこかで会ったことあるっけ?」
なんだか、ナンパの常套文句みたいで、オレはつい、笑いそうになった。まあ、こんな美少女を前にしたら、口説きたくなるのも当然だ。
だが、オレの口調が少し軽薄すぎたのか、レイはニコリともしなかった。いささか、ぶっきらぼうに答える。
「いいえ、今日が初めて」
だよなぁ。だから余計に疑問は消えない。
「じゃあ、どうして朝、オレを指差して、『見つけた』なんて言ったの?」
すると、レイはオレから視線を逸らした。
「別に。気にしないで」
「気にしないで、って」
そういうわけにもいかないだろう。相手がこんな美少女でなければ、オレも気にしないんだけど。
オレはなおも話をしようとしたが、タイミング悪く、無情の予鈴が鳴った。昼休みの終わりだ。レイは会話は終わりとばかり、颯爽と教室へ戻ろうとする。オレも仕方なく、引き上げることにした。
屋上の出入口手前でオレはレイを追い越し、階段を先に降りかけた。そのときだ。オレは誰かから背中を押されたような感触を受けた。
突き飛ばされたオレは、危うく階段を踏み外しそうになった。オレは焦って、階段の手すりにしがみつく。間一髪、オレは転落を免れた。
一瞬にして肝が冷えたオレは、階段を振り返った。誰がこんな悪戯を。しかし、犯人らしき姿はない。
――いや、一人だけいた。屋上の入口に立つ真神レイ。彼女は冷やかな視線で、オレを見下ろしている。
まさか、彼女が。だが、その可能性はすぐに打ち消される。オレが背中を押されたところとレイが立つ位置とでは遠すぎる。どんなに手が長い人間でも届くわけがなかった。
だからといって、レイがオレを突き飛ばしてから、何食わぬ顔で上に戻るのも無理がある。オレは落ちそうになってから、すぐに後ろを振り返った。仮にレイが犯人だとしても、そんな時間はなかったはずだ。
しかし、階段にはオレとレイの二人しかいない。レイがやったことなのか、それともオレの気のせいなのか。オレはショックと安堵をないまぜにしながら、説明のつかない出来事に混乱した。
そんなオレに目もくれず、レイは階段を下りて行った。オレが落ちそうになったのを見ていたはずなのに、「大丈夫?」の一言もない。そのとき、オレは背筋に薄ら寒いものを覚えた。
真神レイ。考えれば考えるほど分からない女だ。
オレは学校からの帰り道を歩きながら、今日の出来事を振り返っていた。
初対面にもかかわらず、オレを指差して、意味ありげな言葉を吐いたレイ。そして昼休み、確かに突き飛ばされた気がしたのに、そこにはレイしかいなかった不可思議さ。何かがオレの身の周りで起きようとしている。そんな予感めいたものがオレの頭をよぎった。
そのとき――
「危ない!」
不意に男の声がした。それが誰に発せられたものか分からず、オレは周囲をキョロキョロする。その刹那、近くで雷でも落ちたような音がして、オレは飛び上がりそうになった。
見れば、オレからほんの三メートルくらい離れたところに鉄骨が落ちており、アスファルトの地面を陥没させていた。もし、オレの上に落ちていれば、ひとたまりもなかっただろう。オレはミンチになった自分を想像してゾッとした。
「大丈夫か!?」
頭上から先程の男の声が降ってきた。ちょうどオレが通りかかったのは建設途中の工事現場で、どうやら誤って資材である鉄骨が落ちてきたらしい。運よく助かったオレは、工事現場の人たちはもちろん、周囲の通行人たちからも注目を浴びた。
バカヤロウ、と怒鳴り返してやりたいところだったが、それよりも死にかけたことにビビってしまい、せわしなく呼吸を繰り返すのが精一杯だった。まったく、今日は学校の階段でのトラブルといい、災難続きだ。
そのとき、オレをジッと見つめているひとつの視線に気がついた。そちらに顔を向けると、道路を挟んだ反対側に、あの真神レイが立っている。オレはギョッとした。
しかし、レイは学校のときと同じく、何事もなかったかのように、その場を立ち去って行った。果たして、偶然か否か。オレは気味が悪くて仕方なかった。
夜。オレは寝苦しさに目を覚ました。まるで誰かに上からのしかかられ、首を絞められていたような気がし、ガバッと布団をはねのける。冬だというのに、びっしょりと寝汗をかいていた。
時計を見た。午前二時過ぎ。すでに昨日のことになるが、二度も危ない目に遭ったのだ。神経が昂って、悪夢を見るのも無理からぬことかもしれない。
オレは息が詰まるような気分に陥り、外の空気を吸おうと窓を開けた。
そのとき、オレは情けなくも悲鳴を上げそうになった。家の前でこちらを窺う人影。それが制服を着たままの真神レイであることがハッキリした瞬間、オレは急いで窓とカーテンを閉めた。
な、なんで、レイが……。
オレは恐る恐る、カーテンの隙間から外を覗いた。
しかし、レイの姿は忽然と消えていた。オレの幻覚だったのだろうか。それともオレのことをつけ狙っているのか。
オレは震えながら、ベッドに潜り込んだ。
結局、オレは朝まで一睡もできなかった。鏡に映っているひどい顔に、オレは力なく笑いかける。
とにかく、レイにすべてを問いただすしかない。どうして、ストーカーみたいなことをするのか。どうして、オレの身の周りで危険なことが起きるのか。尋ねてもレイは答えないかもしれない。しかし、そうせずにはいられなかった。
通学途中、オレはエレベーターの扉に首を挟まれそうになったり、スピードを出したバイクに轢かれそうになったりした。どちらも大事には至らなかったが、一歩間違えればお陀仏だ。命がけの登校になりながらも、オレは途中で引き返そうとはしなかった。
教室へ行くと、レイの姿はなかった。しかし、席には鞄が置いてある。
「真神は?」
「ああ、さっき屋上へ行くのを見かけたけど」
クラスメイトから教えてもらい、オレは屋上へ向かった。昨日のこともあるので、階段は手すりにしがみつくようにしながら登る。何事もなく屋上へ辿り着けた。
レイは――いた。
「真神さん」
オレは屋上から町を見下ろしているレイに声をかけた。
レイが振り返った。オレの顔を見て、急に怖い顔になる。ポケットから何かを取り出した。細長い、小さなもの。
ナイフか。オレはとっさに身構えた。レイは走って、オレに近づいてくる。その唇は固くキュッと結ばれ、意志の強そうな瞳がオレを射抜く。オレは逃げようとしたが、意に反して足は動かなかった。
「危ない!」
レイが言った。そして、おもむろにオレを突き飛ばす。オレは不甲斐なくも、女の子に転ばされた。
その頭の上を、スッと影のようなものがかすめた。レイは尻もちをついたオレに背を向けるようにして立つ。あれっ、オレを刺すつもりじゃなかったのか。
よく見ると、レイが手にしていたのはナイフなどではなかった。もっとゴツゴツとし、両端が尖っている。オレは見覚えがあった。確か、独鈷杵<どっこしょ>とかいう法具だ。
独鈷杵というのは、金剛杵<こんごうしょ>とも言い、元々は仏様が手にしている武器だ。仏像などで、なんとなく形を見たことがあるのではないだろうか。一般的には祭事などで使われ、魔除けの意味があるらしい。オレはこれを武器にして戦う某マンガを愛読していたので、一目見て思い当った。
「とうとう姿を現したわね」
レイが独鈷杵を構えながら喋った。オレにではない。信じられないが、空中を右に左に飛びまわっている影のような存在に対してだ。
それは風の唸りに似た、この世のものとは思えぬ声を上げていた。怨みがましい呪詛。聞いているだけで、生気を吸い取られるような気がした。
「な、何だよ、これ……?」
オレは声を震わせながらレイに尋ねた。
「これは悪霊よ。あなたを殺そうとしていた、ね」
「悪霊? オレを……殺す?」
そのとき、オレの顔は青ざめていたに違いない。それじゃあ、昨日から危ない目に遭っていたのは、この悪霊のせいだったのか。
「ええ、そうよ。――残念だけど、ここまで負の感情が膨れ上がっていると成仏させられないわ! こうなったら、消滅させるしかない!」
レイは恐ろしい悪霊を前にしながら、きっぱりと言った。
「ま、真神さん……君は……?」
「私は裏高野の退魔師! この町に悪霊の気配を感じて、この学校に潜り込んだの!」
ということは、昨日の朝、「見つけた」と言って指を差したのは、オレのことではなく、このオレに憑いていた悪霊のことだったのか。そして、ストーカーのように何かとつけていたのは、オレを守るためだったのだ。
悪霊は狂ったようにオレたちの頭上をぐるぐると回っていた。こいつに取り憑かれたら、きっと魂を抜かれてしまうに違いない。オレは退魔師であるレイの後ろに隠れることしかできなかった。
だが、退魔師・真神レイは恐ろしい悪霊に敢然と立ち向かう。右手に独鈷杵を掲げ、左手で印を切り始めた。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前!」
レイの動作は、初詣の護摩焚きなどで見たことがあった。いわゆる“九字”というヤツだ。
効果は覿面。悪霊は苦しみ出した。レイの術が効いているのだ。空中に光の曼荼羅が描かれ、その中に悪霊が封じられる。
「邪気退散!」
レイが最後の印を切ると、悪霊は壮絶な断末魔をあげた。光の曼荼羅がさらに輝き、光が影を呑みこんでいく。あまりの眩さに、オレは目を開けていられなくなった。
もういいだろうかとオレが目を開けると、悪霊の姿は消えていた。ただ、レイだけが独鈷杵を手に立っている。やがて、レイの肩から力が抜け、ふーっという吐息が漏れた。
「真神さん、ありがとう! おかげで助かったよ!」
オレは悪霊を退治してくれたレイに、心底、感謝し、独鈷杵を握った手を取ろうとした。
と――
パーン、という乾いた音が屋上に響いた。オレはじわりとこみあげてくる頬の痛みに、信じられない面持ちでレイを見つめる。オレは握手の代わりに、平手打ちを喰らったのだった。
レイは、キッとオレを睨みつけた。
「気安く触らないで! あの悪霊を生んだのは、あなたなのよ!」
「……えっ?」
オレは茫然と頬を抑えながら、問い返していた。レイはこれまで以上に冷たい視線をオレに向ける。それは鋭利な刃物のようにオレの心臓をえぐった。
「面白半分に女の子をもてあそび、その挙句に飽きたからと捨てて、自殺に追い込むだなんて。呪われて当然だわ」
吐き捨てるように言うレイを見ながら、オレは長らく忘れていた、自殺したガールフレンドの顔を思い出した。
「あそこまで恨みを募らせていなければ、安らかに成仏させてあげられたのに。彼女の魂は消滅してしまった。もう転生もできない。何もかも、あなたのせいよ」
オレは打ちひしがれた。オレのせい……すべてはオレの……。
レイはひざまずくオレに侮蔑の一瞥を残し、昨日、ふらりとこの学校へ転校してきたように、また気まぐれな風のように屋上から去って行った。