RED文庫]  [新・読書感想文


歴史に名を残す男


 今まさに、人類は未曽有の危機を迎えていた。
 その男は目もくらむような絶壁に追い詰められ、折からの強風に身体を煽られているのに、不敵にも余裕の笑みさえ浮かべていた。なぜならば、彼は手中にある小さなスイッチを押しさえすれば、この勝負に勝てるのだ。男の周りを十数名の特殊部隊の隊員たちが取り囲んでいたが、大小様々な銃を構えながら、誰も手出しできずにいた。
「観念しろ、クラハシ。もう逃げ場はないぞ」
 銃口を向けられた男、クラハシに対し、特殊部隊の隊長が降伏を呼び掛けた。しかし、そのゴーグルの下は汗でびっしょりだ。相手を逆上させては、元も子もない。
 それを知っていて、クラハシは手元のスイッチを特殊部隊の方へ突き出した。その瞬間、びくりと特殊部隊の猛者たちはたじろぎ、一歩、後ずさってしまう。そんな腰が引けた姿に、クラハシは嘲笑を浴びせた。
「お前たちこそ、これで勝ったと思わぬことだな。オレがこのスイッチを押せばどうなるかくらい、分かっているのだろう?」
 そのスイッチは全世界に保有してある核兵器の起爆ボタンになっていた。クラハシはいつの間にか各国のミサイル基地にハッキングし、そのシステムを乗っ取ることに成功したのだ。今、各基地ではエンジニアたちがクラハシからシステムのコントロールを取り戻すべく奮闘しているが、それには何重ものプロテクトを破らねばらなず、最低でもあと六時間は必要とのことだった。
 それに先立ってのクラハシの逮捕命令であったが、選りすぐりの隊員を隠れ家に突入させたにもかかわらず、不覚にも起爆スイッチを奪取することに失敗してしまった。クラハシがスイッチを押せば、世界は終わる。そのことが隊員たちに引き金をためらわせた。
「どうして、こんなことを?」
 隊長は、この狂気の沙汰としか思えぬクラハシの凶行を理解できなかった。するとクラハシは、スイッチを握った方とは違う手を胸に当てる。
「オレの命は、そう長くない。癌だ」
 痛みがあるのだろうか、それとも自らの運命を悲観してか。クラハシの顔が少し歪んだ。
「どうせ死ぬなら、何か大きなことをして、歴史に名を残そうと思ってな。このオレが存在していた証しだ」
「それで、こんなことを……?」
「そうさ。たった一人の人間が世界を滅ぼす。――どうだ? これまで誰も成し遂げることができなかった偉業だと思わないか? アレキサンダー大王も、ヒトラーも、世界全土を蹂躙することはできなかった。その史上初の偉業をオレはここに打ち立てる! 世界の破壊者として、オレの名は歴史に刻まれるのだ!」
 クラハシは海風にも負けないように、大きな声で宣言した。まるで神にでもなったつもりのようだ。狂っている。世界中の核兵器が爆発すれば、地球はあっという間に焦土と化し、人類は死に絶えるだろう。そうしたら、人類の歴史そのものが意味を持たなくなる。そんなことにも考えが及ばないのかと、隊長はクラハシを憐れんだ目で見つめた。
「さあ、殺さば殺せ! オレの息の根が止まるのが早いか、オレの指がスイッチを押すのが早いか、万に一つの可能性に賭けたいのならな!」
 隊員たちはクラハシの挑発に銃を構えなおした。隊長は自重するように左腕一本で制す。即死させることができなければ、スイッチは押されてしまう。仮に即死させられても、何かの拍子でスイッチが押されてしまう可能性も否めない。隊員たちの技量は信じているが、あまりにもリスクが大きい賭けに隊長は躊躇した。
 本来ならば、こうしてクラハシの注意を引いているうちに、別班のスナイパーがライフルで狙撃するのがベストだ。しかし、この強風が吹き荒れている状況では、弾道が逸れる恐れがある。狙撃すらも難しかった。
 あとは奇跡が起きるのを待つしかないのか。無神論者の隊長は、生まれて初めて神に祈った。
 ――と、そのときだ。海風に混じって、何かが空気を切り裂くような音が聞こえた。
 隊員の中の誰かが、あっ、と短い声を上げた。次の瞬間、目の前のクラハシの頭が、ガクンと左に傾く。まるで誰かに殴られでもしたかのように。そのままクラハシは目を見開いたまま、倒れようとした。
 隊長はとっさに動き、クラハシの身体を支えた。しかし、反応はなく、そのまま隊長の胸の中に崩れ落ちようとする。隊長はそっとクラハシを横たえた。
 クラハシは死んでいた。後頭部に触れていた隊長の手が血で濡れている。何者の仕業かと隊長は辺りを見回した。
「隊長、見てください」
 隊員の一人が呼んだ。行ってみると、枯れた草むらにソフトボール大の黒い石が落ちており、それがブスブスとくすぶっている。それはまるで溶けたガラス玉のようにも見えた。
「何だ、これは?」
「隕石だと思われます」
「隕石?」
 隊員の一人が答えるのを見て、隊長はもう一度、地面に目線を落とした。確かに、普通の石とは思えない。こんなところに転がっているものとしては不自然だった。
「自分は見ました。隕石が飛んできて、クラハシの頭に当たるのを」
「本当か? そんなことが起こりえるのか……?」
 隊員の報告に隊長は茫然とした。核兵器の起爆スイッチを押そうとしていたクラハシに、たまたま落ちてきた隕石が当たる確率は、きっと天文学的な数字に違いない。これぞ奇跡と呼ぶにふさわしかった。
 ともあれ、世界は救われた。
「こいつの望みどおりになったな。間違いなく歴史に名前が残るだろうよ。隕石が当たって死んだ男として、な」
 隊長はクラハシの冥福を祈り、立ち上がった。そのとき、右足が何かを踏んづける。
「あっ!」
 その場にいた誰もが凍りついた。
 カチッ!
 隊長が踏んだものは、死んだクラハシの手から転げ落ちた核兵器の起爆スイッチだった。


<END>


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