RED文庫]  [新・読書感想文


効果てきめん


「裕三くん、助けて!」
 いきなり、ケータイにかかってきた麻実からの電話に、井口裕三は面食らった。
「どうした、麻実!?」
 残業中とはいえ、まだ所内にはかなりの人数の同僚が裕三と同じように仕事をしていた。裕三は麻実からのSOSに、自分の席から立ち上がって、何事かと身構える。そんな大声を出した裕三に注目する所員たち。裕三は慌てて、人目を避けるように廊下へと移動した。
「おい、麻実!?」
 廊下に出ると、裕三は応答を求めた。麻実は、この春から独り暮らしをしている。お嬢様なのだから、わざわざ家を出る必要もないだろうと思うのだが、これも社会勉強だという。ひょっとして暴漢にでも部屋に押し入られたのではと、裕三は緊張した。
 ケータイからは、何かがガシャンと倒れるような音や、フローリングをドタドタと走り回る音と一緒に、麻実の恐怖を押し殺したような、しゃくりあげるような息遣いが漏れ聞こえてくる。裕三はすぐにでも麻実の部屋へ行きたかったが、あちらは東京、こちらは大阪。先々月の人事異動で遠距離恋愛を強いられたことが恨めしく思えた。
 とにかく何があったのか、裕三は麻実の次の言葉を辛抱強く待った。わずか十秒ちょっとが、とんでもなく長く感じられる。
 やがて、麻実からの応答が再びあった。
「ご、ごめん、忙しいところ」
 声はひきつったような感じだったが、言葉そのものは緊張感を欠いたものであった。いくらか、裕三も一大事じゃなさそうだと察して、胸を撫で下ろす。
「どうした? 何かあったのか?」
「う、うん……ゴキブリ……」
 裕三は脱力しかけた。
 わざわざ部屋にゴキブリが出たからと遠距離恋愛の彼氏に電話してくる麻実を可愛いと言えなくもないが、少し大袈裟なような気もしないでもない。しかし、そこは心の底からぞっこんであるがゆえの弱味。叱り飛ばすわけにもいかず、ため息をそっと吐くだけにとどめた。
 裕三は廊下の壁に頭を押しつけるような格好で、対処策を麻実に伝授することにした。
「麻実、ウチの会社で作った虫よけスプレーがあるだろ? 《ヨルーナS》を使えば一発だ」
 裕三が勤めているのは、洗剤などの家庭向けクリーニング用品や殺虫剤を作っている国内の有名メーカーだ。裕三は、そこの研究員として働いており、特に一昨年に開発した《ヨルーナS》は自信作で、市場ナンバーワンのヒット商品でもある。麻実にはダンボールごと、先日、プレゼントしたばかりだ。
「あっ、アレね。ちょっと待って」
 裕三に指示された麻実は、どうやら《ヨルーナS》を捜しているようだった。何やら、ガサゴソと捜すような音が聞こえる。しばらくして、あった、という声があった。
「それは人体には無害だから、身体にスプレーしておくんだ。そうすれば、約半日、効果が持続し、ゴキブリはもちろん、蚊やダニ、ムカデといった害虫も寄せつけない。念のため、部屋にもまいておけば、ゴキブリの方から出ていくだろう」
 裕三に言われたとおり、麻実は虫よけスプレー《ヨルーナS》を、シューッと振りまいているようだった。
 ほぼ一本使い切ったのではないかと思われる量をまき終え、ようやく麻実は安心したような声を出した。
「ありがとう、裕三くん。あたし、ゴキブリ苦手だから、もう怖くて、怖くて」
「いや、麻実に何もなくてよかったよ。とにかく、オレが作った《ヨルーナS》を欠かさずに使っていれば、悪い虫なんて寄ってこないから。ストックがなくなったら、また送ってあげるよ」
「ホント? 助かるわ。――ところで、今度はいつ、東京へ来れるの?」
「う〜ん、このところ忙しいからなぁ。今月はちょっと厳しいかもしれない」
「じゃあ、来月? 来月には帰って来れる?」
「う〜ん……多分、大丈夫だと思うよ」
「そう、よかった」
「ごめん、オレ、まだ仕事中なんだ。遅くなるようだったらメールするよ」
「うん、分かった。裕三くん、ありがとうね」
 最後に、チュッというキスするような音が聞こえ、電話は切れた。待ち受け画面に、裕三と麻実のツーショットが写っている。愛らしい麻実の顔を見て、裕三はニンマリした。
 所内に戻ると、みんなが裕三を振り返った。裕三はバツが悪くなる。
「すみません、お騒がせしちゃって」
「なんだ、彼女からの電話か?」
「ええ、まあ」
 裕三は頭を掻いた。
 そんな裕三を同僚がからかった。
「べっぴんな彼女を持つと大変だな。お前たち、遠距離恋愛なんだって? 彼女に他の男ができないか心配だろ?」
 すると、裕三は余裕の表情を見せた。
「何言ってるんですか。これが彼女を守ってくれますよ」
 裕三は机の上に置いてあった《ヨルーナS》を取り上げた。
「こいつさえ彼女が使っていてくれれば、そんな心配はいりません。何しろ、この《ヨルーナS》は、彼女に近づく、どんな“悪いムシ”も寄せつけませんからね」
 裕三は自信満々に言った。
 その自信どおり、裕三は翌月、身をもって《ヨルーナS》の効果を思い知らされることになるのだった。破局という形で。


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