RED文庫]  [新・読書感想文



◆突発性競作企画:再「月夜」参加作品◆

野性の覚醒


 今日は満月だ。
 いちいち月齢を数えなくたって、その日が近くなれば自然と血がたぎり、全身の毛が逆立ってくる。オレはその日、起きてからというもの、夜の訪れが待ち遠しかった。
 この人間社会に溶け込んでいると、つい忘れてしまいそうになるが、オレの肉体にはケモノの血が流れている。それを知れば、人間たちはオレのことを忌み嫌うだろう。だから普段はヤツらと同じく、人間の姿をして生活していた。誰もオレの正体が人間ではないと気づいていない。
「課長、頼まれていた資料です」
 オレのことを独身のエリート課長と信じ込んでいる部下の里村美月が資料を挟んだファイルを持ってきた。意味ありげな目線をよこして、自分の席に戻っていく。オレは、早速、受け取ったファイルを開いた。
 資料の一ページ目には付箋が添付されていた。きれいな美月の字が書かれている。「十九時に《シェ・プルミエ》で」とあった。今夜の誘いだ。オレは付箋をはがすと、誰にも見られないよう丸めて捨てた。
 美月とデートを重ねるようになったのは、つい最近だ。美月は人間としては美人の部類で、教養も高く、他の独身男性社員の垂涎の的である。オレは人間のメスなどにそそられはしないのだが、向こうが勝手に誘ってくるのだから仕方ない。
 一度、どうしてオレなんかを、と尋ねたことがある。そうしたら、
「私、男の方とはいろいろとお付き合いしましたけれど、犬神さんは他の人と違う感じがするんです」
 と、彼女は頬を染めながら答えた。確かに彼女のその感じ方は正しい。オレは人間ではないのだから。
 それにしても今夜とはタイミングが悪い。今日は満月なのだ。オレは美月の誘いを何か理由をつけて断ろうかと思ったが、三カ月先まで予約が埋まっている人気店をわざわざ選んだ彼女のことを考えると悪い気もする。食事だけなら構わないか、と思い直した。
 夜十九時、オレは約束通り、フレンチレストランの《シェ・プルミエ》に行った。フランス料理なんて上品な料理はオレの口に合わないのだが、美月がこういう店を好むのでそれに付き合うことにしている。すでに美月は先に来て待っていた。
「来てくださってうれしいですわ」
 彼女はまだワインも口にしていないはずなのに、オレのことを潤んだような瞳で見上げた。どうやら、かなり気に入られてしまったようだ。オレは心の中で肩をすくめた。
 味などあまり分からないまま食事を終え、オレたちは店を出た。肉を食べるなら、焼いたものよりも生の方がいいなと残念に思いながら、彼女を帰そうと、タクシーを呼び止めかける。すると、急に美月がオレの腕につかまってよろけた。
「ごめんなさい。ちょっと酔ってしまったみたい」
「大丈夫か?」
 オレは早く別れて帰りたかったが、かといって酔って歩けない部下を放っておくわけにもいかない。美月はオレの腕にしなだれかかってきた。
「ほんのちょっと夜風に当たっていれば醒めると思います」
 オレはため息をつきたかったが、なんとかこらえて、道路の反対側にある公園へ移動した。
 その公園は夜のデートスポットとしても有名で、行ってみるとカップルばかりだった。他人の目を気にせず、延々とキスしている若い男女もいる。まったく、こっちの方が見てられない。オレは美月を支えるようにして空いていたベンチに腰を下ろした。
「すみません、犬神さん」
「いや」
 オレはなんとも困った。人間のメスに寄り添われてもくすぐったいだけだ。それなのに美月は、オレの肩に頭を預けるどころか、抱きつくように手まで胸板に這わせてくる。酔って気持ちが悪いというよりも、どこか恍惚とした表情を見ていると、どうやら美月の演技にまんまとしてやられたことが分かった。
「犬神さん、見て。ほら、満月。きれい……」
 うっとりとした様子で美月が言った。
「――っ!」
 オレはなるべく満月を見ないようにしていたのだが、こうも皓々と降り注ぐ月の光を浴びていると、全身に血が駆け巡り、次第にケモノの本能を抑え難くなっていた。だ、ダメだ。今、美月の前でケモノの姿に戻るわけにはいかない。
 しかし、そんな形ばかりの理性は、ケモノ本来の野性の前では無意味だった。夜空に浮かぶ満月を見た途端、自我をつなぎ止めていたはずの精神の鎖は呆気なく引きちぎられてしまう。
「うっ……ううっ……うああああああああっ!」
「犬神さん!?」
 突然、立ち上がって絶叫をあげるオレに、美月は目を見開いて驚いた。オレはせめて、誰にも見られないところで変身しようと思ったが、心配した美月が顔面蒼白でオレの腕をつかむ。
「どうしたんですか、犬神さん!? しっかりしてください! ――キャッ!」
 オレは美月の手を乱暴に振り払った。だが、もう姿を隠している余裕はない。
 ぞくっ、という悪寒に似たものが走った刹那、オレの肉体に変化が起きた。全身を毛が覆う。腕は前肢に変じ、爪が伸び、さらには尻尾が生え、オレは人間からケモノへと姿を変えていった。野性の解放。それを美月はしっかりと直視していた。
「い、イヤ……イヤァァァァァァァァァァァァッ!」
 美しく照らされた月下にて、オレは本来のあるべき姿に戻った。とうとう、その正体を人間の前にさらしてしまったのだ。美月は信じられないといった驚愕の表情を凍りつかせている。
 だが、満月の魔に魅入られたような光は、オレをさらなる本能に突き動かそうとしていた。もう、こうなってはどうしようもないのだ。体が勝手に動いてしまう。
 オレは爛々と光るケモノの眼を美月に向けた。美月は射すくめられたようになる。果たして、そこに人間のときのオレを少しでも垣間見ることができただろうか。
 そして、オレは――

 しょ しょ 証城寺 証城寺の庭は♪
 ツ ツ 月夜だ みんな出て 来い来い来い♪
 おいらの友達ぁ ぽんぽこ ぽんの ぽん♪

 ※ 原典:「証城寺の狸囃子」(作詞:野口雨情 作曲:中山晋平)


<END>


 突発性競作企画:再「月夜」


RED文庫]  [新・読書感想文