RED文庫]  [新・読書感想文


常連客


「いらっしゃいませ!」
 開いた入口のドアから、外気と喧騒が店内へ入ってきたのを察し、私はカウンターを拭いていた手を休め、さわやかにお客様を出迎えた。
 学生時代からずっと憧れていた喫茶店のマスターにようやくなれた私にとって、この半年間はとても充実したものとなっていた。大好きな珈琲の香りと有線から流れる静かな音楽に包まれながら、ひとときの憩いを求めて訪れてくださるお客様を相手に、当店自慢の一杯をお出しする――なんという至福の人生であろうか。あの通勤電車に押し込まれ、上司にねちねちといびられながら、得意先にひたすら頭を下げ続けていたサラリーマン生活がウソのようである。
 それもこれも、早期退職による退職金のおかげだ。単に体良くリストラに遭ったわけだが、サラリーマンが性に合わなかった私にとっては渡りに船。それどころか、今のご時世、退職金が出ただけでも御の字であろう。今まで嫌でも辞めずにいたのは、とにかく家族を養っていかなければならない責任があったからで、すべてから解放された今はすがすがしい気持ちすらしていた。
 その退職金で喫茶店を経営したいと妻に申し出たときは、さすがにあきれられた。娘の進学やゆくゆくの結婚資金、そして何があるか分からない夫婦の老後のために使うべきだと言われたのだ。妻の言い分は当然であっただろう。正論だ。しかし、私は頑として折れようとはしなかった。
 これまで優柔不断な人生を送ってきた私にとっては、人生初とも言える固い決断だった。これこそが人生のターニング・ポイント。このチャンスを逃したら、二度と夢の実現はできないに違いないと思えた。喫茶店のマスターになるのは今しかない、と。
 そんな真剣な私を見た妻は、不承不承という感じがありありではあったが、最後には承諾してくれた。いや、本当はあきらめたのかもしれない。喫茶店がダメになったら、離婚しようとでも考えていたのだろうと思う。
 ところが新規開店の喫茶店はうまく行った。場所的にも、多くの学生、サラリーマンが利用する駅のすぐそばという好条件で、来客は朝から夜まで途切れることなし。それにメインである珈琲の味には大いに自信があった。私がこれまで何十年もこだわり続けてきた味だ。大抵のお客様は私が淹れる珈琲の虜となり、毎日のようにお見えになる方も少なくない。
 今では妻も娘も、私が喫茶店を開いたことを喜んでくれている。妻に言わせると、最近の私は変わったそうだ。無趣味で陰気だった私が、今はとても生き生きとして見えるらしい。私もその通りだと思う。
 やや年配のサラリーマンがカウンター席に座った。開店直後から来ていただいている常連さんだ。何か仕事のメールでも届いたのか、携帯電話を熱心に見ていて、注文するのも忘れている。そこで私は、
「いつものでよろしいですか?」
 と、お冷とおしぼりを出しながら尋ねた。携帯電話を見ていたサラリーマンは一瞬、キョトンとしたような顔をしたが、すぐにつられたようにうなずく。当店ではオリジナル・ブレンドが一番人気なのだが、私は彼がいつも飲んでいるアメリカンを淹れ始めた。
「アメリカンです」
 私は彼の前に珈琲カップを置いた。携帯電話をしまったサラリーマンはそれをしげしげと眺め、それから私の顔を見上げた。
「へえ、私がいつも飲んでいるのを憶えているの?」
「はい」
「他のお客さんのも?」
「大抵の常連さんならば。もっとも日替わりで違う方もいらっしゃるので」
「こりゃあ驚いた! この店は珈琲だけでも十種類以上あるのに!」
「お客様が来店されたら、すぐに飲みたいものをお出しする。そう常々、思っているだけです」
 仰天しているサラリーマンに、私ははにかんだ。
「じゃあ、次に来るお客さんのも当ててみてよ」
 私の記憶力がどれほどのものか試してみたくなったのだろう。サラリーマンはそう私に持ちかけてきた。
「それは別に構いませんが……常連さんじゃないお客様もいらっしゃるので」
「そういうのはノーカンでいいからさ」
 彼は遊び半分に言った。
 すると都合良く、また新しいお客様が来店した。二人組のOLだ。遅いランチの帰りといったところだろう。
 目の前のカウンター席に座ったサラリーマンは私に目配せしてきた。あの二人は常連か、という意味に違いない。私はさりげなくうなずくと、窓際のテーブル席に座った二人にお冷とおしぼりを運んだ。
「いらっしゃいませ。ケーキセットですね? お客様はブレンド、そちら様はミルクティーでご注文はよろしいでしょうか?」
 私が先に注文しようとした品を言ったものだから、彼女たちは面喰った様子だった。ぎこちない笑顔を浮かべる。
「え、ええ。それでお願いします」
「かしこまりました」
 私が戻って来ると、その様子を見ていた先刻のサラリーマンが笑いを堪えるような顔をしていた。
「すごいですね! ビンゴだ!」
「いや、それほどでも」
 その後も私は一人の営業マンと大学生三人組の注文を聞く前にそらんじて見せた。サラリーマンはすっかり私の記憶力に感服した様子だ。
 その彼が珈琲を飲み終わり、そろそろ引き上げようとお勘定をしているところへ、また新しいお客様がやって来た。彼は太り気味のサラリーマンで、額に汗を浮かべながら、少し息を切らせていた。
「あの……」
「どうぞ。今、空いておりますよ」
 私が店の奥の方を示すと、そのサラリーマンは慌てた様子でそちらへ行った。
「今のは?」
「ああ、あの方も常連のお客様でしてね。必ず来店されると、まず注文よりも先にトイレへ駆け込まれるのです」


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