“気をつけよう 甘い言葉と暗い道”
いいかげん錆が浮き、すっかり字も色あせた立て看板を横目に見ながら、相良みゆきは帰りの道を急いだ。
すでに時計の針は夜中の一時を回っている。時代はすっかり、深夜の一人歩きなど珍しくもないものにしているが、それでも心細くなってくるのは当然であろう。静かな住宅街に、みゆきが履いているミュールの足音だけがやけに大きく聞こえた。
本当なら、もっと早くにアパートへ帰り着いている予定だった。ところが友人のナオコと二人で兼ねてから約束していた食事をした後、彼女の携帯電話にマサシから連絡が入り、これから店に来て飲まないかと誘われてしまったのだ。それはナオコへの誘いだったから、別にみゆきが付き合う必要もなかったのだが、どうしても一緒に来てほしいと懇願され、仕方なく三人で飲むことになった。
みゆきが店に姿を見せると、待っていたマサシは立ちあがって二人を出迎え、久しぶりの再会をとても喜んだ。元々、マサシは、みゆきをナンパしてきた男で、これまでしつこいくらいに交際を迫っていたのだ。みゆきがそれを頑なに拒むと、今度は友人のナオコに乗り換えたわけだが、どうやら今でもあきらめきれないらしい。よくナオコは、こんなどこがいいのか分からないような男と付き合っていられるなと、みゆきは半ば呆れていた。
マサシはナオコを呼び出したにも関わらず、もっぱらみゆきの隣にすり寄って、あれやこれやと話しながら、やたらと身体に触れてきた。みゆきはそんなマサシに辟易し、ナオコにもう帰ろうと何度も目配せしたのだが、その度にもうちょっとだけと引き延ばされ、不快な時間を過ごさねばならなくなった。どうやらナオコは、みゆきを連れてくるよう、マサシに言いつけられたらしい。みゆきは友人に裏切られたのだ。
それがハッキリとしたとき、みゆきは不機嫌さを露わにし、引き留める言葉も聞かずに、二人を置いたまま店を出た。まったく冗談ではない。不愉快だ。そうやって頭に血を昇らせたまま駅へ向かったみゆきであったが、すでに終電間際になっており、利用駅のふたつ手前が終着点となる電車しか走っていなかった。
かくして、みゆきはいつもより二駅分も余計に歩かされ、家路への長い道のりを歩いていた。降りた駅からタクシーという手もあったのだが、給料日前で出来るだけ出費は抑えたい。ほろ酔い気分もすっかりと醒め、みゆきはともかく早く帰って風呂に入り、ベッドに潜り込みたかった。
ようやく見慣れた住宅街へと辿り着いた。ここまで来れば道も良く分かる。ツイてない夜もここまでだ、とみゆきは思った。
ところが、自分の足音とは別に、もうひとつの靴音がすることにみゆきは気づいた。後ろを振り返ると、黒っぽいトレンチコートを着た男性が五十メートルほど離れたところを歩いている。みゆきと同じように、終電に乗り遅れた帰宅途中のサラリーマンだろうか。
すると男は、みゆきが振り向いたことに気づき、突然、小走りになった。明らかにみゆきへ向かってくる。それを見たみゆきは心臓が止まりそうになった。
深夜、見知らぬ男に追いかけられて、身の危険を感じない女はいないだろう。みゆきは逃げた。それはもう必死で。
「待って!」
男の声がした。しかし、待てと言われて、素直に従えるものではない。相手は何者か分からないのだ。
ところが、走り出したみゆきは、すぐにも転びそうになった。なにしろ、走るのには適さないミュールを履いていたのだ。無理もなかった。
そこでみゆきは思い切って、先月買ったばかりのミュールを脱いだ。惜しさはあるが、命あっての物種。ほとんど放り出すような格好で素足になる。これで少しは走りやすくなった。たまにアスファルトの路面に転がった小石を踏みつけて、涙が出るほどの痛みが走るが、それでもスピードを緩めない。
みゆきは近くの交番へと走った。ここからなら三百メートルくらい。この先の公園を抜ければ近道だ。
男は追いかけて来ていた。もう小走りなどではなく、全力疾走だ。時折、「おい!」だの、「止まれ!」など大きな声を出すが、そんなものに構っていられない。恐ろしさから、後ろを振り向きさえしなかった。
みゆきは中学、高校と、陸上部に所属していた。脚力には、いささか自信がある。ただし、陸上と言っても、短距離や長距離ではなく、ハードルの選手だったのだが。
公園の手前まで来た。みゆきと男との距離は縮まっている。それがなぜ分かるかと言えば、大きくなった足音に加え、男の荒い息使いが聞こえてくるからだ。このままでは追いつかれそうだ。
(見てらっしゃいっ!)
みゆきは全速力で公園に突っ込んだ。そして、思いきって踏み切る。
公園の入口には自転車止めの柵が設けられていた。人間が中へ入るときも、柵を避けるようにして、ジグザグや斜めに進む必要がある。みゆきはそれをハードルの要領で、ひらりと跳び越えてみせた。
昔取った杵柄は、今もみゆきの助けとなった。飛越と着地に見事成功し、ゴールである交番を目指す。
後方では、男の「うわぁ!」という悲鳴と、何かがぶつかった痛そうな金属音が聞こえた。どうやら、そのままのスピードで走ってきて、柵を避けきれなかったらしい。砂地の上を滑る音もした。転倒したのだろう。これであきらめてくれればいいのだが。
公園を抜けると、交番はすぐ目の前だった。あとは当直の警官がいてくれることを祈るだけ。せっかく交番へ駆け込んでも、警官がパトロールで不在では、ここまで逃げて来た甲斐がない。
みゆきは、顔も見たくないナンパ男に会い、友人に裏切られ、終電を逃してトボトボと歩く羽目になり、そして怪しい男に追いかけられた、このツイてない夜を一刻も早く終わりにしたかった。
「お巡りさん!」
ドアにぶつかるような勢いで、みゆきは交番に飛び込んだ。その剣幕に、中にいた若そうな警官がびっくりする。
「どうしました!?」
「変質者です! 変な男に追いかけられて――」
みゆきの様子に、すぐ事情を悟ったらしい警官は、一旦、緊迫した面持ちで外へ出たが、すぐに戻ってきて懐中電灯をつかんだ。そして、再び様子を見に出かけようとしたところで、トレンチコート姿の男が現れた。
「やあ、えらい目に遭った」
男は脛を強打したらしく、顔をしかめながらぼやいた。警官は反射的に警棒へ手を伸ばす。
「あんたか、このお嬢さんを追いかけていたのは!?」
「あ、ちょっと待って。私は怪しい者じゃない。こちらの方にこれを届けようと思っただけだ」
男はコートのポケットからブランド物の財布を取り出した。
「あっ! 私の財布!」
みゆきは呆然とした。
「やっぱりそうか。駅の外へ出たところで拾ったんだ。一度は見失いかけたんだけど、見つけられて良かった。そうしたら彼女が、どうやら私を痴漢にでも間違えたらしくて――いやぁ、ひどいなぁ」
「ご、ごめんなさい」
みゆきは深々と頭を下げた。財布にはICカード式の定期券が入っている。多分、改札を出たときに落としたのだろう。恥ずかしくて、そのまま顔を上げられない。
警官も事情を知って、ホッとしたようだった。
「そうですか。じゃあ、単なる勘違い、早とちりだったんですね」
「ところでこの財布、本当にあなたの物で間違いないですか?」
男は確かめるように尋ねた。みゆきはうなずく。
「はい、私のです」
みゆきは返してもらおうと、手を差し出した。ところが男は代わりに、懐から黒い手帳のようなものを取り出す。
それを開くと、本物としては初めて、ドラマでは何回も見たことのあるバッジが輝いていた。
「私はこういう者なんだが、この財布を拾ったときに、中身を検めさせてもらった。で、中に入っていた、この白い粉のようなものについて、あなたから話を伺いたいのですがね」
刑事は表情を強張らせるみゆきの目の前で、小さなビニール袋に入った白い粉を振って見せた。
やはり今日は、ツイていない夜だった。