RED文庫]  [新・読書感想文


女性専用車両


 ホームに流れる、発車ベル代わりのメロディが今にも鳴り終わろうとしていた。
 禿川京平は階段から転げ落ちそうになりながら懸命に急いだ。この電車を逃せば、遅刻は確実。大事なプレゼンが予定されている今日の会議には、絶対に出席しなければならない。
(まだ閉まるなよ! まだ!)
 階段を駆け降りたところで、ホームに立っている駅員が前後の確認をしているところが見えた。そろそろ発車らしい。電車へ突進しながら、禿川は必死の形相になった。
 プシューッ、という音がすると、ドアは目の前でゆっくりと閉まり始めた。禿川はどうにか、最近、腹周りの気になった身体をドアの隙間にねじ込む。他にも駆け込み乗車の客がいたせいか、満員電車のドアはギクシャクとした動きを示し、禿川にとっては幸運なことに、わずかばかりの時間的猶予を作ってくれた。
「ふぅーっ」
 間一髪、電車に乗り込めた禿川は激しい動悸を覚えながら、大きく息をついた。電車はT駅を出て、都心へと向かう。
(これで間に合う。助かったぁ!)
 目覚まし時計が電池切れだったのに気づかず、いつもより三十分も寝坊してしまった禿川だが、これでひと安心と胸を撫で下ろした。
(――おや? おかしいな)
 ようやく気持ちも落ち着いてきたところで、禿川はいつもと違う周囲の様子に気がついた。連日、この時間帯の車内は殺人的な混雑であるはずなのに、今日はやけに空いているように思える。休日でもないのに。
 実のところ、混み具合はいつもとそれほど変わりはなかった。禿川が空いていると錯覚したのは、彼の頭が他の乗客よりもひとつ分高く出て、普段よりも車内を見渡すことができたせいだ。
 そのとき、禿川は自分に向けられている冷やかな視線に気づいた。それも全員女性。男性客は一人も乗っていない。
(あっ! しまった!)
 途端に、禿川は血の気が引くのと、顔が赤くなるのを同時に感じていた。禿川の他が全員女性客なのも道理。ここは女性専用車両だったのだ。
 主に痴漢行為などを敬遠した女性客が安心して乗車できるために設けられた女性専用車両。もちろん、禿川も毎日、利用している路線なので、朝の通勤時はその車両を避けて乗るようにしていたのだが、今日は遅刻しそうになって慌てていたために、ついうっかりと乗り込んでしまったらしい。
 そういえば、T駅の階段は、男性客にとっては迷惑なことに、ちょうど女性専用車両が停車するところに位置している。そのため、朝の通勤時に利用する男性客は、そこからさらに一般車両の停車位置まで移動しなくてはいけないのだ。一刻を争う朝の時間帯に、わざわざそんな気を使わなくてはいけない疎ましさを禿川も常日頃から感じていた。きっと、今日の禿川と同じような失敗をやらかした者は、これまでにもいたに違いない。
(あっちゃぁ……やっちまったぜ……どうしよう……?)
 女性だけの聖域に異分子である男がひとり入り込んだせいで、禿川への嫌悪感はあからさまだった。特に若い会社勤めの女性や女子校生の視線が突き刺さるように痛い。
(こっちだって、別にわざと乗ったわけじゃないんだけどなぁ、言い訳しても仕方ないけど)
 だからといって、この満員すし詰め状態の中を、迷惑を承知で移動し、隣の車両へ行くのもはばかられた。次の駅で、一旦、降りるしかない。せいぜい出来ることと言えば、ドアの近辺で身を小さくすることくらいだ。
(やれやれ、今日は厄日だなぁ)
 禿川は胸の内で立て続けの不運を呪った。
(それにしても――)
 禿川は鼻がむずむずするのを堪えきれずに思った。
(さすがに女性ばかりが乗っているせいか、化粧品の匂いがきついなぁ。こいつら、何とも感じないんだろうか?)
 よく一階が化粧品売り場になっているデパートが多いが、禿川はあそこを通るときを思い出していた。どうしてデパートというのは、誰もが必ず通る一階をあのような匂いで満たしているのだろう、と禿川は常々、不快に思っていたのだ。
(まったく、最近、デパートの経営が傾いているのは、そういう男性のニーズを考えていないせいだ! 化粧品売り場なんて、どこかに隔離しておけばいいのに!)
 心の中で勝手な愚痴をこぼしながら、禿川は満員電車に揺られた。
 まあ、それもこれも次の駅へ到着するまでの四分間の辛抱だ。禿川は早く着かないかと念じながら、ドアに身をもたせかけた。
 すると、腰の辺りへ何かが触れるのに気づいた。満員電車だから、そんなことはしょっちゅうあることだが、それにしてもこれは――。禿川は首だけを動かして後ろを見た。
(おお、可愛い!)
 禿川の後ろには若い女性客がいた。就職活動中の女子大生か、OLだろうか。まだ新しそうなスーツに身を包んでいるが、ルックスは芸能人でもトップクラスに入るくらいキュートだ。なんとなく、“そのみん”という愛称で親しまれている、人気女性タレントに似ている。
 その“そのみん”は上目づかいで、禿川に微笑んだ。はにかんだような表情が本物そっくりで可愛すぎる。禿川はドキッとした。
(今日はツイてる!)
 いつも苦痛と忍耐を強いられる通勤電車だが、今日に限ってはパラダイスと言ってもいいだろう。なにしろ、あの“そのみん”に似た女の子と密着しているのだ。ついつい、ムラムラッとした気持ちが湧き上がりそうになる。
 そのとき、禿川は心臓が止まりそうになった。“そのみん”の手が禿川の腰の辺りをまさぐってきたのだ。
(お、おいおいっ!)
 びっくりしたのと同時に、思わず呻き声を漏らしそうになって、禿川は慌ててこらえた。“そのみん”の手はたまたま触れたのではなく、明らかに彼女の意思によるものであり、現に腰から前へ回り、太腿へと移動している。禿川は狼狽した。
(まさか、こんな可愛い娘が痴女なのか!?)
 禿川にとっては大きなショックだった。
 こうして禿川が痴女に遭うのは、言うまでもなく初めてのことだ。話には聞いたことがあるが、実際にそんな女性がいるとは思ってもみなかった。そんなのは、どうせ男の願望が生んだ、下世話な与太話に登場する人物だと思っていたのだ。
 しかし、これは間違いなく現実だ。禿川は“そのみん”の手をはねのけることもできず、されるがままに任せていた。こんなことをしてはいけないという理性が働くものの、這いのぼってくる快楽には抗いきれない。
 だが、この衆人環視の中での密かな行為は、誰かに見つかると非常に厄介だという心配もあった。禿川が被害者として見なされればいいが、女だらけのこの車内で、誰が味方になってくれるだろうか。下手をすると、反対に禿川への痴漢嫌疑がかかる恐れだって考えられる。禿川は冤罪ですべてをぶち壊しにされた不運なサラリーマンのドキュメント番組を思い出した。
 そのとき、電車が急カーブに差し掛かった。すっかり“そのみん”の触れてくる手の動きに気を取られていた禿川は、足を踏ん張ることも出来ずに大勢の乗客に潰されそうになる。その拍子に、“そのみん”の身体はより禿川と密着し、二人はまるで抱き合うような格好になった。
(わあっ、このまま死んでもいいや!)
 すでに理性など消し飛んでしまい、役得を存分に味わいながら、禿川は天にも昇る気持ちになった。このまま、こちらからも“そのみん”の身体に触れてみようか、と考える。最初にタッチしてきたのは向こうなのだ。こっちの行為だって許されるはず。
(ひょっとすると、彼女もそれを期待してこんなことを――)
 と、禿川が危うい一線を越えようとした刹那、電車は速度を落とした。次の停車駅に近づいたのだ。ハッと我に返った禿川は、よからぬ行為を思いとどまった。
 ドアが開くと、禿川は押し出されるようにしてホームに降りた。別れ際、“そのみん”が『楽しんでくれた?』とでも言うように、いたずらっぽく微笑んでくれた気がする。しかし、すぐに激しい乗降客の入れ替えの中、彼女の姿を見失ってしまった。禿川も再び女性専用車両に乗るわけにはいかず、名残惜しさはあったが、急いで隣の車両に乗り込んだ。
 電車がまた発車すると、今度は打って変わってむさくるしい車内の中で、禿川は一駅の体験を思い出して、一人、ニヤニヤしていた。
(あんなこと、もう二度とないだろうなぁ。ああ、まだ胸がドキドキしている!)
 禿川は動悸を抑えるように、右手で心臓の辺りを触った。すると、
(あれっ――?)
 次の瞬間、のぼせあがった気持ちは一気に冷め、禿川は逆に青ざめた。
(しまった! やられた!)
 背広の内ポケットに入れていたはずの財布が、見事にすられてなくなっていた。


<END>


RED文庫]  [新・読書感想文