「今夜はこっちで寝てちょうだい! 一緒に寝たくないから!」
夫の祐輔が何かを言い返す前に、茉那は足早に寝室に入ると、当てつけるようにドアを乱暴に閉めた。それでも気が治まりきらず、ベッドの上にあったクッションをドアに投げつける。ドスン、という予想外に大きな音が響き、ひょっとしたらマンションの隣の部屋まで聞こえてしまったかもしれない、と茉那は思った。
こんなに激しい夫婦喧嘩をしたのは、結婚して三年、初めてではないだろうか。ただし、夫婦喧嘩といっても、今回は茉那が一方的に感情を爆発させただけだ。食卓に一人残された祐輔は妻がなぜここまで激怒するのか、箸と茶碗を持った手を止めたまま、理解に苦しむといった戸惑いの表情を見せていた。
茉那がここまで激怒した理由は、夫、祐輔の態度にあった。このところ仕事が忙しいようで、帰宅するのも遅いせいか、祐輔は休日になっても家の中でゴロゴロしていることが多い。専業主婦をしている茉那としては、まだ子供も出来ていないのだし、たまには二人揃っての外出を楽しみたいのだが、いつも「また今度」という言葉で片づけられてしまうのだ。
確かに、新婚当時のようなラブラブな感じは、三年も一緒にいれば薄れてしまうのも当然だとは思う。それでも、もう少し妻に対して愛情を示してくれてもいいのではないだろうか。もし、毎日ご飯を作って、掃除と洗濯をするだけの存在でいいなら、それは妻というより家政婦と同じだ、と茉那は腹立たしく思えてならない。
今夜だって、茉那が来月の結婚記念日にどこか旅行に行きたいと言ったら、祐輔は仕事だから無理だと即答した。茉那とて、二人の結婚記念日が平日に当たっているのは知っている。有休を取るのが難しいなら、せめて土日に一泊する小旅行くらい考えられないものか。それすらも厳しいと言うのならば、普段は行かないような高級レストランで記念日を祝うとか、いくらだってやりようはあるはずだ。
「ああ、まったく、もおっ!」
夫へのイライラが、ついつい茉那の口から漏れた。ストレスが溜まり過ぎて、声に出して言わずにはいられない。ブツブツ文句を呟きながら、茉那はパジャマに着替え、ベッドに潜り込んだ。
食事の後片づけもせず、不貞寝を決め込んだ茉那であったが、いつになく感情が昂っているせいで、なかなか寝つくことができなかった。寝ようという意思に反し、色々なことが頭の中で渦巻く。
交際当初、祐輔のことを両親に紹介したら、陰で結婚を反対されたことを思い出した。そのときは、「結婚するのは私なんだから」と振り切るように聞く耳を持たなかったものだが、あれから三年、こうして夫婦関係が冷めてくると、あのときの両親の心配は取り越し苦労などではなかったのかもしれないと思えてくる。今は早く孫の顔を見たいなんて言っているが、最近の冷えた夫婦生活事情を知ったら何と言うか。
改めて祐輔のどこを好きになったのか、茉那は自問してみた。見かけは残念ながら二枚目ではないし、ちょっと人付き合いが苦手という、いささか社交性に欠ける一面を持つ。でも、話してみると茉那よりも頭がいいし、争い事を好まず、他人の悪口も決して言わない。この人なら一緒になっても、ずっと自分を大切にしてくれると思ったのだ。
それが今では――
やっぱり男なんて結婚してしまうと、妻を自分の所有物くらいにしか考えないのだろうか。同じように結婚している友人からも、そんな話をよく聞く。
何だかんだと考えているうちに、チラッと時計を見ると、午前二時近くになっていた。ベッドに入ったのが十二時前だから、二時間も悶々としていたらしい。
祐輔はもう寝ただろうか。謝って来るかと思ったが、まったくそういった気配もない。妻がどうして立腹したのか訳も分からず、どうせ今夜限りの癇癪だろうと決めつけ、触らぬ神に祟りなし、とばかりにソファで寝ているのだろう。茉那は悔しくて涙が出そうになった。頭から布団をかぶる。
早く何もかも忘れるように深い眠りに落ちてしまいたい。と、すっかり冴え渡ってしまった頭で考えた刹那であった。
最初、何か音を聞いたような気がした。その音が何か、と思い至るよりも先に、今度はベッドが震え始める。嫌な予感がした。続いて、背中を突き上げるような衝撃――
(地震――!?)
突如、大きな揺れが襲ってきた。窓のサッシがガタガタ鳴り、天井から吊り下げられた電燈が振り子のように揺れ、遠くから不気味な地鳴りが聞こえてくる。茉那はあの大震災の日を思い出した。
(キャアッ!)
布団の中に潜ったまま、茉那は悲鳴も出せずに、ただ身体を丸めることしか出来なかった。動けない。それどころか激しい揺れのせいで、ベッドの上から転げ落ちそうになった。
バサバサッと本棚から何冊もの本が落ちた。この寝室には縦長の本棚が置いてある。本棚が倒れたら、ベッドにいる茉那は下敷きになってしまうだろう。そう頭では理解出来ていても、地震の恐怖は茉那を金縛りにした。
「大丈夫か!」
地震の最中、寝室のドアが開けられた。祐輔の声だ。
「あなたっ!」
祐輔の存在によって、茉那はやっと声が出せた。暗い部屋の中を、揺れで立っていられない状態なのに、壁に手を突きながら祐輔は寝室まで来てくれたのだ。やはり、いざというとき、何を置いても自分のところへ駆けつけてくれた祐輔は自分を愛してくれているのだ、と茉那は恐怖も忘れて感激した。
ベッドまで辿り着いた祐輔は、その大きな身体を茉那に覆いかぶせてきた。身をもって茉那を守るつもりらしい。本がさらにドサドサと落ち、リビングからは食器の割れる音も聞こえてくる。大地震はいつまでも続くかに思われた。
やがて、その揺れも徐々に治まっていった。冷静に振り返れば、あの大震災に比べ、震度はさほど大きくなかったかもしれない。だが、真夜中に起きた地震は、あのときを彷彿とさせるのに充分な怖さがあったのは確かだ。
揺れを感じなくなっても、祐輔はまだ茉那の上に乗っかったままだった。幸い、本棚は倒れておらず、夫にもケガはなかったはずだ。夜中、ずっと熱を帯びていた怒りはいずこかへ消え去り、茉那は最愛の夫に対して感謝の念でいっぱいだった。
「ありがとう、あなた」
だが、祐輔が真っ先に寝室へ駆けつけたのには、別の理由があった。
「ああ、よかった! 壊れなくて!」
夫が握りしめていたのは、彼が日頃から枕元に置いて大事にしていた、お気に入りのアニメヒロインのフィギュア――それが無傷であったことに、何よりも安堵していた。