RED文庫]  [新・読書感想文


親孝行したいときに親はなし


「では、こちらにお名前をお願いします」
 オレよりも年下に見える、若くて可愛いナースに言われ、いささか緊張しながらボールペンを手にした。面会者名簿に『渡邉章嗣<わたなべ・しょうじ>』、と自分の名前を書く。我ながら汚い字だ。画数が多い漢字のせいもある。どうしてウチは簡単な『渡辺』でなく、難しい『渡邉』と書くのか。
「四〇四号室の渡邉さんの御家族ですね。どうぞ」
 汚い字をナースに笑われやしないかと心配しつつ、オレは母ちゃんのいる病室へ向かった。
 ちょっと入院する、という電話を母ちゃんからもらったのは、確か一週間くらい前だったと思う。オレがまだ小さい頃に親父を亡くし、女手ひとつ、ずっと働きながらオレと姉ちゃんの二人を育ててくれた母ちゃんは、これまでに病気らしい病気をしたことがない、とにかく健康が取り柄のような人だった。そんな病院と無縁だったはずの母ちゃんが入院すると聞いたときは、さすがのオレも驚いたが、よくよく話を聞いてみると、そんなに大したことはないらしい。ひとまずオレはホッとした。
 ところが昨日、今度は姉ちゃんから電話があった。
「ちょっと、章嗣! アンタ、母さんの見舞いにも来ないで、何やってるのよ!?」
「はあっ!? だって母ちゃん、大したことじゃないから心配するなって言ってたし、オレだって色々と忙しいんだよ!」
「何が忙しいのよ! 二十七にもなってフラフラして! どうせ、まだ仕事も見つかってないんでしょ!?」
「うるさいなぁ。久々に電話してきたと思ったら説教かよ!」
「当り前でしょ! 普段は母さんに金をせびってばかりのクセして、こんなときには見舞いにも来ないんだから! アンタももう子供じゃないんだから、いつまでも甘えてんじゃないわよ!」
 母ちゃんは昔から、姉ちゃんよりも弟のオレのことを可愛がってくれた。姉ちゃんが割と要領よく何でも出来たのに対し、オレが何をやらせてもダメな息子だったからだろう。大学を卒業してから一人暮らしを始めてみたが、仕事はすぐに辞めてしまったし、今もって再就職もままならない。オレが金を貸してくれと母ちゃんに泣きつくと、いつもではなかったが、必ず苦しいときには工面してくれた。とっくに親子の縁を切られていてもおかしくないのに、本当に母ちゃんはオレのことを見捨てないでいてくれる。三年前に結婚した姉ちゃんが妬むのも当然だ。
「とにかく明日、母さんの見舞いに来なさいよ! たまには元気な顔を見せて、親を安心させてやったって罰は当たらないんだから! いいわね? 私も行くから、絶対に来るのよ!」
 というわけで、オレはこうして見舞いに訪れなくてはならなくなった。まったく、姉ちゃんは母ちゃんよりも口喧しい。
 オレは何の見舞いの品も持たず、母ちゃんの病室を探した。本当は花くらい買ってくればよかったのだろうが、そんな金すらない状況だ。
 出来れば三万円くらい金を貸してもらいたいな、と不謹慎なことを考えながら、オレは四〇四号室の前に辿り着いた。もう姉ちゃんは来ているだろうか。
 中に入ろうとしたそのとき、姉ちゃんの大きな声が廊下にまで聞こえた。
「ええーっ、数パーセント!?」
 最初、何のことか分からなかった。姉ちゃんは何に驚いたのか。“数パーセント”とは、何を指す数字なのか。
 どこかで誰かが、ひどく苦しそうな咳をした。その瞬間、オレの胸に不安が広がる。
 ひょっとして、母ちゃんは癌とか、そういった重い病気にかかっているのではないだろうか。手術をしても助かる見込みは数パーセントとか。つまり、死の宣告を受けたも同然ということなのか。
「母ちゃん!」
 オレは真っ青になって、病室へ足を踏み入れた。
「あら、章嗣」
「やっと来たわね」
 母ちゃんはベッドの上で身体を起こしていた。その傍らには姉ちゃんも座っている。久しぶりに会った母ちゃんは少し痩せたような気がした。
「か、母ちゃん、寝てなくて大丈夫なのかよ!?」
 こうしてオレが母ちゃんを気遣うなんて初めてのことだった。母ちゃんも姉ちゃんも、ちょっとびっくりしたような顔をしている。
「大丈夫よ。電話で言ったでしょ? ちょっと暑さにやられただけだって。ほら、今年の夏は尋常な暑さじゃなかったし。母さんもそろそろ歳かしら」
 母ちゃんは、そう言って笑った。きっとオレを心配させないようにしているんだ。
「母ちゃん、本当のこと言ってくれよ。オレ、しっかりと現実を受け止めるからさ。これからは一人でもちゃんとするからさ」
 オレは泣きそうになりながら、母ちゃんの手を握り、子供のようにすがった。母ちゃんがいなくなってしまう。そう考えただけで、オレは目の前が真っ暗になったような気分だった。
 ところが母ちゃんと姉ちゃんは、そんなオレを見て、キョトンとしたような顔つきをしていた。オレがどこで母ちゃんの病状を知ったのか、不思議に思っているのだろうか。
「ちょっと、章嗣。アンタ、何を言って――」
「オレ、知っているんだぜ! 母ちゃん、何か重い病気なんだろ!? もう手術しても助かる確率は――」
「どこでそんなことを聞いたのよ!? バカじゃないの!?」
 姉ちゃんが嘲るように言った。オレは頭に血が昇る。
「たった今、姉ちゃんが言ってたじゃないか! 大きな声出して、『数パーセント!?』って! 手術の成功確率なんだろ!? なあ、そうなんだろ!?」
 ふと素に戻った姉ちゃんは、母ちゃんと顔を見合わせた。そして、二人はいきなり吹き出す。
「違うわよ! それはアンタの勘違いだわ!」
 オレはうろたえた。
「じゃ、じゃあ、オレが来る前まで、何の話をしてたっていうんだよ!?」
「ああ、それはね――」
 姉ちゃんはひとしきり笑ってから息継ぎをした。母ちゃんは顔を伏せたまま、必死に笑いを堪えようとしている。
「実は母さん、最近、コレが出来たんだって」
 親指を立てて、姉ちゃんは面白そうに言った。コレって、恋人ってことか?
 まあ、母ちゃんだって、長い間、独身だったんだ。それに、まだ還暦を迎えていないが、近頃は連れ合いを亡くした高齢者同士が再婚するケースも多いと聞く。“老いらくの恋”とかいうヤツか。母ちゃんにそういう相手が出来てもおかしくないだろう。これでも物分かりのいい息子のつもりだ。
「でね、どこで知り合ったのかって訊いたら、“スーパー銭湯”だったんですって!」


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