深夜一時。
慎乃介はこっそりと家を抜け出した。こんなところを口うるさい母に見つかったら、「小学生がこんな夜中にどこへ行くの!?」と目くじらを立てて怒られただろう。家族の誰にも見つかるわけにはいかなかった。
こんな時間に外を出歩くなんて、小学三年生の慎乃介にとっても初めての経験だった。普段ならぐっすりと眠っている時間だ。でも今夜だけは別である。
夜の町中は、小学生でも安心して出歩けるくらい明るかった。一定の距離で街灯が並んでいるし、自動販売機も防犯上の意味合いがあるのか、煌々と電気がついている。町内に二軒あるコンビニエンスストアも二十四時間営業で、こうして子供の夜更かしを見かけても、ちょっとした買い物なのだろうと見過ごしてくれる大人が多いのも好都合だった。。
慎乃介は小走りになりそうな気持ちを抑えつつ、目立たぬように近所の公園へ向かった。昼間のうちに目星をつけていた場所だ。
途中、特に何事もなく、家から十分もかからない公園に到着した。
夕方まで学校の友達と遊んだばかりの公園には、ぽつんと街灯が一本あるだけで、物言わぬ遊具がうら寂しい雰囲気を醸し出していた。やはり夜は昼間と違う。慎乃介は入口のところで、誰かいないか、注意深く様子を窺ってみた。どうやら大丈夫のようだ。そうと分かると、慎乃介は生唾をひとつ呑み込んで、中へと入った。
右手は知らず知らずのうちにポケットの中のライターを握りしめていた。タバコを吸う父のだ。卓袱台の上にあったヤツを無断で持ち出したのだった。あとでこっそりと戻しておかなくてはならない。
慎乃介は公園内の茂みを目指した。あの裏なら人目につかないだろう。あそこならば大丈夫だ。
あと十メートルという距離で、慎乃介は誰かが走ってくるような足音を聞いた。視線を向けると、反対側の入口に人影が。どうやら深夜にジョギングをしている人のようだ。
声をかけられると厄介だと思った慎乃介は、見つかるよりも早く茂みの裏へ移動した。ジョギングしている人物がこの公園を通り抜けてもいいように、と。
しかし、茂みに隠れた慎乃介は、思わず声をあげそうになった。昼間にはなかったはずのダンボールハウスが、そこにあったからだ。
おそらくはホームレスのものだろう。中からいびきが聞こえてきている。多分、夜にだけこうやってダンボールハウスを運んで来ては、ここで寝床を確保しているのだろう。
思わぬ先客に仰天させられた慎乃介であったが、かろうじて悲鳴を堪えた。おかげでジョギングしていた男性を無事にやり過ごし、寝ているホームレスも起こさずに済ます。もうちょっとで計画がパーになるところだった、と慎乃介はホッと胸を撫で下ろした。
だが、この場所をホームレスに占拠されたとなると、いささか計画を変更せざるを得なかった。慎乃介は第二候補地を考える。思い出したのは学校の近くにある潰れた工場。あそこなら無人なのは確実だろう。
家からさらに遠ざかることになるが、慎乃介に躊躇はなかった。
時計を持っていない慎乃介は、今が何時ぐらいか分からなかった。外へ出たのが午前一時だから、夜が明ける恐れはないと思うが、長く家を空けるのにも不安がある。いつ布団が空っぽになっていることを親に気づかれるか。慎乃介は焦った。
遠くで消防車のサイレンが聞こえた。どこかで火事なのだろうか。そう言えば、この辺では最近、放火が多いらしい。昨日の夕飯のとき、母が父に話しているのを思い出した。それらしき方角に首を伸ばしてみたが、火事らしき炎も煙も確認できない。気にはかかったものの、慎乃介は廃工場に急いだ。
小学校にあがる前から潰れていたその工場が、元々、何を造っていたのか、慎乃介は知らない。中には幽霊がいる、なんて作り話もクラスの誰かから聞かされた憶えがある。
普段なら近づきたくない場所だが、今夜ばかりはそうも言っていられなかった。
裏手に回ると、雑草がぼうぼうに生えていて、ものによっては子供の背丈ほどまでに伸びていた。トタン板で造られたボロい廃工場はあちこちに穴が開いていて、小さな子供なら中へ入ることも可能だ。あらかじめ穴の場所を知っていた慎乃介は、草むらを掻き分けて、身を縮めるように不法侵入した。
中はさすがに暗かったが、汚れたガラス窓から外の明かりが差し込んでいて、少しすると目が慣れた。処分されていない錆びた機械の塊が恨みがましく鎮座している。埃と油の臭いがした。あまり長居はしたくない場所だ。
とっとと済ませて家に帰ろう、と慎乃介は早速、ポケットからライターと服の下に隠していた紙を取り出した。慎乃介はその紙に火をつけるべく、ライターのスイッチを押す。
「あれっ?」
火はつかなかった。というより、スイッチが硬くて動かない。慎乃介はいつも父がやっているようにしてみたがダメだった。
まだ小学三年生の慎乃介は知らなかった。最近の使い捨てライターには“チャイルドレジスタント”という安全装置がついていることを。子供のライターによる火遊びによる事故が問題になった昨今、ただ単にスイッチを押しただけでは火がつかないような仕様になっているのだ。
「何で!? 何でだよぉ!?」
そうとは知らない慎乃介は、何度も操作したが、やはり火はつかなかった。ここまで来て、火をつけられないとは――
「そこで何をしている!?」
鋭い声が慎乃介に飛んだ瞬間、眩しい懐中電灯の光がすべてを照らし出した。
慎乃介の両親が交番に駆け込んできたのは、それから三十分後のことだった。母は小さくなっている慎乃介に、開口一番、
「何してるのよ、あんたはぁ!」
と頭ごなしに怒った。警官が苦笑しながら、それを取りなそうとする。
「慎乃介くんのお母さんですか? そんなに叱らないであげてください」
「でも、勝手に余所様の敷地内に入って、ライターで火をつけようとしたのでしょう? しかも、こんな真夜中に。まったく、どういうつもりでそんな放火魔みたいなことをしたんだか!」
「いえ、電話では詳しくお話しできませんでしたが、慎乃介くんが火をつけようとしたのはあの廃工場ではありません。彼がこっそり燃やそうとしたのはコレです」
警官が焼き捨てるはずだった0点の答案用紙を差し出すのを見て、すべてが終わってしまった、と慎乃介は深い悔恨の念を抱いた。