「ふぅ」
仕事を中抜けし、会社の屋上で一服した伊東は、紫煙と一緒に疲れを吐き出した。社内に喫煙コーナーもあるのだが、やはり屋上で景色を見下ろしながらタバコを吸った方がリフレッシュになる。乾いた秋の風も気持ちがいい。
眼下のイチョウ並木が黄色く色づいていた。伊東はそれをぼんやりと眺めながら、中間管理職の憂さを少しの間だけ忘れる。課長に昇進して、多少は給料がアップしたものの、それに見合わないくらい仕事の量が増えた。仕事仕事の毎日で、しばらく趣味の山登りにも行けていない。せっかくの紅葉シーズンだというのに。ストレスがたまる一方だった。
なかなか仕事に戻る決心がつかないでいると、新たに二人の社員が屋上へやって来た。伊東の部下である大野と松田だ。二人は二十代半ばで歳が近く、しかも営業三課で常に一、二を争う販売実績を上げている優秀な若手だ。普段は業績を競っているライバルというより、戦友といった感じの仲なのだが、どういうわけか今日は違った。
「離せよ!」
肩をつかむようにして屋上まで連れてきた様子の大野に対し、松田が苛立ったように振り払った。だが、松田も負けていない。大野を睨む目は燃えているかのようだった。
「どういうことだよ、大野!? 何で横から出てくるようなマネすんだよ!?」
「うるせえ! オレが横取りしようとしてるみたいに言うな! お前ら、まだ正式に付き合っているわけでもねえんだろ!」
「何だとぉ!?」
二人は伊東に気づかず、殴り合いでも始めそうな勢いだった。伊東は慌てて、止めなければと思う。そこへ一人の女子社員が飛び出してきた。
「待ってください! 松田さんも大野さんもケンカはやめて!」
女子社員は業務部の井上エミリだった。違う部署の女の子だが、伊東でも知っている。今年の新卒入社ながら、その美貌とプロポーションは人気モデル並で、独身の男性社員ばかりでなく、年配の上役連中でさえ彼女には好意以上のものを持っている。どうやら、大野と松田がケンカをしていたのは、そのエミリを巡ってのことだったらしい。
伊東は、益々、出て行きづらくなった。関心がないフリをして、そっぽを向きながら、もう一本、タバコを吸う。
「井上さん! この際だからキミが決めてくれ! オレと付き合うか、それとも松田と付き合うか!」
「えっ……?」
「そうだ、井上さんの言う通りにする! だから、どっちか選んでくれ!」
二人の男に選択を迫られ、エミリはたじろいだ。なかなか決め切れずに、身体をモジモジし始める。その仕種がまたそそった。自然の為せる業か、あるいは計算ずくによるものかは分からない。しかし、そんな彼女に煩悩が疼かない男などいないだろう。
たっぷり一分は経過してから、ようやくエミリは口を開いた。
「私、松田さんも大野さんもよく知らないですし、今ここで決めるというのも……」
二人はそろって結論を急ぎ過ぎたかと後悔したような顔になった。エミリは両手の指と指の先をくっつけ、閉じたり開いたりを繰り返しながら続ける。
「もし、結婚を前提にしたお付き合いというなら――」
「《当然です!》」
大野と松田が異口同音に即答した。二人の勢いに気圧されたエミリだったが、すぐに気を取り直してはにかむ。その頬はピンク色に染まっていた。
「あの……こんなことを言うと変に思われるかもしれませんが……結婚して、それこそずっと一緒に暮らすのって、今、好きかどうかっていうことより、お互いの相性が一番大切だと思うんです……ですから……私……どちらの方とベッドでの相性がいいのかな、と考えてしまって……」
恥ずかしがりながらも大胆な発言に、聞かされた大野と松田はもちろん、聞こえてしまった伊東まで、一瞬、思考のヒューズが飛んだ。ベッドでの相性――つまり、セックスってことか。
まだ何も知らないようなウブを装っておいての衝撃的な告白に、興奮を覚えない不能者の男など死んでしまった方がマシだ。特に若い二人は鼻息が荒くなる。
「じゃ、じゃじゃじゃ、じゃあ、お、おた、おたたっ……お互いの相性を……その……た、試してみるってのは……ど……どうかな?」
「も、もちろん、ベッドの……上で……」
欲望に正直な二人はエミリに提案した。これでは相手もエミリと閨<ねや>を共にすることになるが、仮にフラれても一夜の思い出になるという算段か。妻子のある伊東は呆れつつも、年甲斐もなく、うらやましく思った。
さすがに、このような提案は受け入れられるはずがないと思われたが、あにはからんや、エミリは赤面しつつもうなずいた。しかも、その表情はどこか嬉しそうにも見える。見かけによらず淫蕩な血が流れていたのか。可愛い顔をしていても、女の本性というものは、げに恐ろしい。
すっかりと有頂天な男どもは、そんなことにも気づかないのか、小躍りしたり、ガッツポーズをして喜んでいた。
次の週、また伊東が屋上で一服していると、大野と松田がそろってやって来た。一週間前とは違う。それどころか、四十を過ぎた伊東よりも人生に疲れ切ったような顔をしていた。
ゾンビのように伊東の横までフラフラと来て、柵にもたれかかると、手にしていた缶コーヒーや栄養ドリンクを飲み始めた。その様子にはまったく若者らしい覇気がない。二日酔いかと思ったが、それとも違う。上司として心配せずにはいられなかった。
「どうしたんだ、二人とも。不景気な顔して。いつもの営業スマイルはどうした?」
「はあ……」
「何か、もうくたくたで……」
「若いくせに、何を言っているんだ、お前たち」
伊東はタバコをふかしながら、気にかかっていた例の件を訊ねてみようと思った。ひょっとすると、二人とも元気がないのは、井上エミリにフラれてしまったせいかもしれない。
「ところで、二人のどちらかが業務部の井上くんと付き合っていると聞いたんだが」
さりげない風を装って伊東が尋ねると、二人は死んだ魚のような目を向けてきた。そして、計ったかのように同時にため息をつく。
「いや、井上さんとだなんて……」
「無理ですよ。とてもじゃないけど……」
「な、何が無理なんだ?」
「だって……」
「なあ」
二人はそれぞれ、エミリとの一夜を思い出しているようだった。そして、記憶を追いやるみたいに身震いする。一体、何があったというのか。
「とてもじゃないけど、一緒になるなんて……」
「絶対、無理ですよ……あれじゃ、いくら身体があっても足りない……」
「は?」
「全然、寝かせてもらえなかったもんな……」
「オレも朝までずっとだったよ……」
大野と松田の呟きに、伊東はあらぬ想像をしてしまった。そんなに井上エミリはベッドの上では激しいのだろうか。相手の男を一睡もさせないくらい、何度も何度も求めてくるのだろうか。伊東はゴクッと喉を鳴らし、生唾を呑み込んだ。
まさかエミリのいびきが尋常ではなかったことが事の真相であるなど、伊東が知る由もなかった。