――しまった、財布がない!
いつも財布を入れているズボンの尻ポケットを触り、俺は青くなった。
落としたのではない。正確には、部屋に財布を忘れて来たのだ、と俺は気づいた。
何しろ、昨日から今日の朝方まで居酒屋のバイトをしていたため、俺は昼近くまで熟睡していた。そこへ亜花梨からの電話。もう駅に着いた、とのことだった。
実は、同じ大学に通う亜花梨を以前からずっとデートに誘い続けていたのだが、ようやく昨日になってOKがもらえたのだ。有頂天になった俺は、善は急げとばかりに、夜勤明けにもかかわらず、今日の昼にデートをセッティングした。
まずは俺の住むアパートに近い駅で待ち合わせをし、ファミレスでランチを取ってから、映画館に行く――という初デートとしては無難なコースをチョイス。
ところが、すっかり疲れて泥のように眠っていた俺は亜花梨からの電話で起こされた。初デートで遅刻だなんて、とんでもない。俺は手早く着替えを済ませると、慌ててアパートを飛び出した。
そのせいで、うっかりと財布を持って出るのを忘れてしまったのだ。
ファミレスでの食事もそろそろ終わり、支払いの準備をしようとした俺は、やっと財布がないことに気づいた。
そんなことなど知らない亜花梨はオレの向かい側でデザートのアイスクリームを食べている。
――どうする? 彼女に事情を話し、この場の支払いをお願いするか?
別にデート代が払えないわけではない。アパートに戻れば、ちゃんと財布には現金がある。バイト代が入ったばかりだから間違いない。借りた金は、すぐに返すことが出来る。
しかし――
初デートで財布を忘れるなんて、あまりにもカッコ悪すぎではないか。やっと亜花梨をデートに誘えたのだ。もし、ここで醜態をさらせば、彼女との仲もこれっきりかも知れない。それどころか、大学で笑い者になるかも。
俺は悩んだ。
「どうしたの?」
コーヒーカップを睨んだまま動かない俺に不審なものを感じたのか、亜花梨が怪訝そうに尋ねた。俺は何でもないフリをする。
「いや、別に……」
「ねえ。映画、混んでるかなぁ。今日、公開初日だし」
亜花梨が観たがっている少女マンガが原作の恋愛映画など、俺にはどうでもよかった。今、この状況をどう乗り切るか、だ。
俺は席を立った。
「ちょっとトイレ」
テーブルに亜花梨を残し、俺は男子トイレに入った。
こうなったら、浜田に電話して金を貸してもらおう。
浜田と言うのは、この近所に住んでいる俺の友人だ。財布は忘れたが、もうひとつの必需品であるスマホは持って来たので、浜田に連絡して事情を伝え、こっそりファミレスまで来てもらおう、という算段である。そうすれば俺の面子は保たれ、めでたしめでたし、というわけだ。
俺はトイレの中から電話をかけようとした。
ところが――
「――っ!?」
あろうことか、スマホのバッテリーがなくなっていた。今日はどんだけ厄日なんだ、と俺は神様を恨みたくなる。
そうだった。あまりに疲れて帰って来たせいで、スマホの充電もせずに速攻寝てしまったのだ。クソッ、こんなときに限って!
これで浜田に連絡を取ることも出来なくなった。
――待てよ。このトイレに来る他の客にスマホを借りるか?
いいアイデアに思えた。
――いや、駄目だ。仮に貸してもらえても、浜田の電話番号が分からないのでは意味がない。
スマホなんてバッテリーがなければ、カップラーメンを作るときのフタを押さえる重しぐらいにしかならないではないか。役にも立たないスマホを思わず叩き壊してやりたくなった。
八方塞がりのまま、仕方なく俺は席に戻った。すっかり冷めたコーヒーを口にする。
「そろそろ出ない? 映画の時間もあるし」
俺がトイレへ行っている間にアイスクリームを食べ終わった亜花梨が言った。そうしたいのは山々なれど……。
チラッと俺は店内を見渡した。
こうなったら最後の手段、食い逃げをするしかないか。いや、そんなのは愚の骨頂だ。第一、亜花梨と一緒にそんなことが出来るわけがない。それに、俺の気のせいかもしれないが、ときたま店員たちがこっちの方をチラチラ見ているように感じられる。
ひょっとして店の連中は俺が金を持っていないことに気がついたのだろうか? それで逃げられないように見張っている、とか。……まさか。きっと気のせいだ。財布を忘れたせいで、俺はいろいろと悪い想像を膨らませてしまっているのだろう。
「行きましょう」
俺の同意も得ず、早く映画館へ行きたそうな亜花梨は席を立った。「ここは私に払わせて」なんて虫のいい想像をしたが、彼女にそのつもりがないのは伝票をテーブルの上にそのままにしていることからも明らかである。俺は処刑台に上がる死刑囚の面持ちで伝票をつかんだ。
やはり彼女に払ってもらうしかないだろうな、と思いながらレジカウンターまで行こうとすると、なぜか数名の店員が俺たちの動きに合わせるかのように近づいて来た。やっぱり、金がないことに気づいているのか? そして、警察に突き出そうと――俺は緊張した。
「あ、あの……」
どう説明しようか、俺が迷っていると――
パァン!
いきなり破裂音がして、俺も亜花梨も驚いた。破裂音は三、四発続く。
何事が起きたのか、俺が身構えていると、店長らしき男性が進み出た。
「おめでとうございます! お客様は当店で百万人目のご来店者様でございます! それを記念しまして、お客様には当チェーン店どこでも使える一万円分のお食事券と本日のお食事代を無料にさせていただきます!」
お祝いのクラッカーから飛び出した紙テープを頭に乗せながら、呆気に取られた俺は声を出せなかった。
ただし、心の中では思い切り叫び出したかった。
――それならそうと、もっと早くに教えろよ!