RED文庫]  [新・読書感想文


Knock,Knock!


「ふぅーっ」
 しばらく粘ってみたのだが、今回も駄目だった。オレは便器に座りながらうなだれる。
 どうやら便秘らしい。以前はそんなことはなく、快眠快便だけが唯一の取柄だったのだが、このところ便意はあっても結局は出ないまま終わってしまう。やはり、食生活が変わったせいだろうか。
 二週間前、母が亡くなった。
 十年前に父が亡くなって以来、ずっと二人暮らしだったので、それまで朝夕は必ず母の作った料理を食べていたのだが、最近はコンビニやスーパーで出来合いの総菜を買うとか、冷凍食品をレンジでチンするとか、外食で済ますとか、そういった毎日を送っている。野菜も割と気にして摂っているつもりなのだが、まったく効果が表れていない有様だ。
 ひょっとすると便秘の原因は、食生活のせいではなく、精神的なものなのだろうか。
 母が亡くなったことによって、ずっと実家暮らしだったオレは、初めて一人暮らしをすることになった。これまでは黙っていたって、時間になれば食事が出されたし、洗濯物をカゴに放り込んでおけば、きれいになって戻って来たし、トイレ掃除やゴミ出しだってしなくても済んだ。
 ところが、それらを全部やってくれていた母が亡くなったことで、すべての家事を自分でこなさなければならなくなった。それでストレスを感じているのかも知れない。
 元来、能天気な性格のオレも、さすがに母を失くしたことは思った以上に堪えているのではないだろうか、と客観的に分析をしている。
 今でも度々、母は元気にしているような錯覚に陥るし、朝起きて自分一人しかいないことに、取り残されたような侘しさを覚えたりしていた。
 でも、それも今のうちだけなのだろう。いずれは母のいない生活に慣れ、一人暮らしにも適応していくはずだ。それとも早く結婚した方がいいのだろうか。
 自分にそう言い聞かせながら、オレは下ろしていたパンツとズボンを穿こうと、腰を浮かしかけた。
 そのとき――

 コンコン

 トイレのドアがノックされた。
 オレは何も考えず、反射的にノックを返し、使用中であることを伝える。
 ――ん?
 つい、いつもの癖でノックを返してしまったが、一体、誰がトイレのドアをノックしたのだろう。
 母の存命中は、互いに同じものを食べていたせいなのか、よくトイレを使うタイミングが重なったりしたものだ。たった二人しかいないというのに、あれは一体どういうわけなのだろう。
 それはともかく、母が亡くなった今、オレは一人暮らしだ。誰もウチに招いてもいないし、それに今の時間は深夜の二時。誰かがいるはずがない。
「………」
 オレはジッとトイレのドアを見つめた。
 ノックの音だと思ったのは、何か別の音だったのだろうか。風の強い日なんかだと、トイレの小窓から吹き込んだ風が、ドアをガタガタ言わせることがある。それをノックと錯覚したのか。
 母が亡くなってから、オレはちょっとした物音に敏感になっていた。自分で立てていないはずの音――それが聞こえるたびに、何だろうと身構えてしまう。そのほとんどは急に唸り出す冷蔵庫だったり、湯沸かし器から忘れた頃にチョロッと垂れ流される少量の水だったりするのだが。
 今のも風の悪戯だったのだろうか。ドア全体を揺らすドンドンという音よりも、ピンポイントに叩かれたコンコンという音だった気がしてならないけれど――
 とりあえず、オレは穿きかけだったパンツとズボンを身につけた。
 すると――

 コンコン

 再びノックの音がした。今度こそ間違いない。風の仕業などではなく、絶対に何者かがドアを叩いたのだ。
 オレは恐ろしくなった。誰が勝手にウチへ上がり込んだと言うのだろう。
 一瞬、頭によぎったのは、強盗が忍び込んだのか、ということだ。留守かと思って侵入し、誰かいないか確認するためにトイレをノックした――とか。
 しかし、オレはその考えをすぐに打ち消した。そもそもウチはマンションの四階だ。外から侵入できるわけがない。
 ……いや、待てよ。
 それも早計かもしれない。ベランダからは無理でも、玄関からなら容易ではないか。
 オートロックではない築四十年以上にもなるマンションだから、部外者でも難なく好きな階へ行き来できる。それに玄関の鍵をちゃんと施錠したかどうか、忘れっぽいオレとしては自信がなかった。
 戸締りも母任せだったせいで、その辺のチェックを怠ることがかなり多い。この前も朝、仕事に出かけようとしたら、玄関の鍵が開いていてギョッとした経験をしたばかりだ。一人暮らしになったのだから、ちゃんと用心しておかないといけないのだが。
 もしも強盗ならば、何か凶器を持っているかも知れない。のこのこ出て行くわけにはいかなかった。今度はノックの返事をせず、黙って息を殺す。

 コンコン

 またノックされた。迂闊にも、一度、返事をしてしまったせいだろう。ドアの向こうにいる人物は、中に誰かいると確信しているに違いない。
 オレはジッとしていた。金を奪われるのは痛いが、命よりはマシだ。
 ところが――

 ガチャッ!

「――っ!」
 いきなりドアのノブが回され、オレは心臓が止まりそうになった。中へ入ろうというのか。どうやら相手はこちらを見逃すつもりはないらしい。
 あわや、というところだったが、トイレのドアにはスライド・ボルト式の鍵をかけていたので、開けられることはなかった。一人暮らしなのだから、トイレに鍵をかける必要性はないのだが、これも母が生きていた頃の癖だ。それがオレを救うことになろうとは。
 だが、相手は執拗だった。鍵がかかっているのが分かったはずなのに、なおもガチャガチャとドアノブを回そうとする。
 万が一に備え、オレは武器になりそうなものがないか、トイレの中を見回した。目についたのは、掃除用のブラシと洗剤だけ。クソッ、こんなものでは役に立たない。
 とにかくここはトイレに籠城し、相手が諦めてくれるのを待つしかなさそうだ。
 ところが、そうは問屋が卸してくれないらしい。施錠されているにもかかわらず、強盗は力任せにドアをこじ開けようと躍起になり始めた。

 ガタガタガタッ!

 風が揺らすときよりも激しい音で、トイレのドアが壊されようとしていた。その力の凄まじさ。あまりにも強引に引っ張るので、小さな閂を固定した留め具が外れそうになっているではないか。
 ここはトイレという逃げ場のない狭い密室。
 慌ててオレはドアノブをつかみ、開けさせないように踏ん張った。
 手汗をかいているせいか、つかんだドアノブが滑って空回りし、グイグイと凄い力で引っ張られる。何てヤツだ。鍵の金具は浮き上がり、もう落ちそうになっているではないか。このままだと本当にドアが壊され、一巻の終わりだ。ええい、相手はプロレスラーみたいな化け物か。
 オレは歯を食いしばって、必死に抵抗した。もう額も脇の下も汗だくだ。
「くっ、クソぉ……ぜったい……絶対、中には入れねえからな!」
 決死の覚悟を示すため、オレは精一杯の大声を張り上げた。
 すると――
「………」
 どういうわけか知らないが、途端にドアノブにかけられていた力が消えたようになくなった。
 その拍子に、オレは後ろへ倒れそうになったが、そのまま足を踏ん張らせて転倒を免れる。ドアノブからは決して手を放さなかった。こちらを油断させ、一気に中へ入られたらお終いだからだ。
 しかし、いくら待っても再びドアノブが回されることも、ノックされることもなかった。今度こそ諦めたのだろうか。オレはドアの外に耳を澄ませ、慎重に侵入者の気配を探った。
 それからどのくらいの時間が経過したか。オレはようやくトイレから出た。
 誰もいない。
 それでも何処かに隠れているといけないので、まずキッチンへ行き、料理でもあまり使わない包丁を護身用に握った。そして用心しつつ、部屋中すべての明かりを点け、大して広くもない2DKの室内を入念に調べて行く。
 玄関はちゃんと施錠されていた。おまけにドアチェーンもかかっている。ここから侵入されたわけではないらしい。
 次にベランダ側のサッシも調べる。どれもクレセント錠がされていた。窓を割られた形跡もない。
 ということは、外部からの侵入は不可能という結論に達する。
 ――そんなバカな。
 オレは悪夢でも見たというのだろうか。
 いや、あれは確かに現実だったはずだ。ドアノブが強引に回ろうとする生々しい感触は、痺れるくらい手にまだ残っているし、現にスライド・ボルト式の鍵だって壊れかけているではないか。何者かがトイレのドアを開けようと足掻いたのは間違いない。
 では、何者だったのか――
 熱帯夜だと言うのに、オレは背筋に薄ら寒さを感じた。
 全部の部屋を確認し終え、ようやくオレは緊張感から解放される。
 あんな恐ろしい体験をして、寝つける自信はなかったが、明日も仕事は早い。少しでも身体を休めておかないと。
 オレは亡くなった母の部屋の電気を消す前に、
「……まさか、母さんが迷い出たわけじゃないよな」
 と、まだ捨てることが出来ないまま、あれからずっとベッドの脇に置いてある、新品の大きなスーツケースに向かって呼びかけた。


<END>


RED文庫]  [新・読書感想文