【最新作】
また少し雪が吹雪いてきた。私は山間に見える鉛色の空に目を眇める。まるで、一切の色という色がこの世界から失われてしまったみたいだ。
「やっぱり降ってきたわね。どうする、那奈? 戻る?」
どうやら彼女はこの世界の住人ではないらしい。ワインレッドという鮮やかな色のダウンジャケットを着た親友の優貴菜が、髪に雪がつかないようフードを被りながら私に言った。都会育ちで寒さに弱い彼女は、すぐにでも宿へ帰りたそうな顔をしている。
でも、私は首を縦に振らなかった。大抵の場合、優貴菜の言うことには賛同する私にしては珍しい。
「もうちょっと行けばあるはずだから。せっかくここまで来たんだし、行ってみようよ」
そう言って、私は先に立って歩き出した。
私たち二人は、二泊三日の予定でA県の雪深い山奥へ来ていた。ここには秘湯があると言われ、温泉ブームの今も絶好の穴場となっている。以前から優貴菜と二人でいろいろな場所を巡っていた私は、今回の旅先にここを選んだ。
旅行は初日から雪に見舞われた。元々、積雪の多い地域として知られているから覚悟の上だ。宿に到着してからというもの、何処にも出かけることが出来ず、ひたすら温泉三昧だった。
二日目の今日も朝からずっと吹雪いたままだったが、昼前になって、ようやく晴れ間が覗き始めた。このタイミングは逃せない。私は寒がりな優貴菜を外へと連れ出した。この温泉宿の近くにある景勝地のひとつ、“氷の滝”を見るために。
冬場になると滝の水が凍りつくという“氷の滝”は、想像よりも遥かに壮大なものだった。まるで氷の竜が天を目掛けて駆け昇っているようにも見える。残念ながら他の観光客は誰もいなかったが、私たちは二人ではしゃぎながら、スマホでの撮影を楽しんだ。
その後、私が行こうと提案したのは、“氷の滝”からさらに山奥へ入ったところにある“氷室神社”という場所だ。観光スポットとして有名ではないが、昔は修験者が訪れた地だと聞く。何処かを旅行するとき、最寄りの神社仏閣に必ず参拝するのが私の習慣だ。そういうものに優貴菜はあまり興味なさそうだが、いつも付き合ってくれている。
雪が降り出したのは、そこへ向かう途中だった。
「あれっ?」
しばらく無言で歩いていた優貴菜が私の後ろで声を上げた。振り返ると、右手の手袋を外し、スマホを操作している。
「どうしたの?」
「さっきの滝での写真、インスタに載せようと思ったんだけど」
「そんなの無理に決まっているじゃない。こんな山奥なのよ」
温泉宿を出てからというもの、民家のひとつもありはしない。
「わっ、ホントだ。通話もダメだわ。あーぁ、せっかくインスタに上げて、孝史さんに見せようと思ってたのに」
「そんなの、宿に戻ってからにしなさいよ。――ほら、優貴菜。見えてきたわよ」
私は進行方向にある山を指差した。
目的の“氷室神社”は急斜面の上に建てられていた。石造りの階段がまるで直角のように伸びている。近くまで行くと、見上げるだけで首が痛くなりそうだった。
「ちょっと、嘘でしょ!? こんなトコを登るの!?」
登る前から優貴菜は及び腰だった。そう言うと思ったけれど。
「凄い階段ね。ざっと二百段……ううん、三百段くらいあるかも」
「本当に行く気?」
「当然よ。ここまで来ておいて、登らずに帰るわけにはいかないでしょ。優貴菜も参拝した方がいいわよ」
「いいわよ、私は。ここで待っているから、那奈だけ行って来なよ」
「ここで待ってるなんて、それこそ正気? ジッとしてたら、寒くて凍えてしまうわよ。それよりは身体を動かした方がいいって。ちょっとした運動だと思って行こうよ」
「ええーっ!?」
優貴菜は露骨に嫌がったが、最終的には登ることに決めた。やはり取り残されることに不安を覚えたのだろう。
「じゃあ、行くわよ。雪で階段が滑るかもしれないから気をつけて」
まず最初に私、次に優貴菜が続く形で、神社の階段およそ三百段に挑んだ。彼女に注意はしたが、登ってみると階段の幅があまりなく、所々、いびつに擦り減っており、うっかり足を滑らせそうで怖い。何しろ、階段のひとつひとつからして幅が狭く、靴のサイズ二十二センチの私でも爪先から土踏まずにかかるか、かからないかという微妙さで、常に踵は宙に浮いているような状態だ。しかも勾配がきついので、ほとんど手袋をつけた両手も使うような格好になった。
そんな階段と格闘すること約十分。私たちは何とか山の中腹にある“氷室神社”に到着した。
「な、なかなかのスリルだったわね」
「ホント……お願いごとをする前に、こっちの寿命が縮まるわ」
私たちは息も絶え絶えに、神社の前で喘いだ。
「ゴメンね。何だか強引に付き合わせちゃったみたいで」
四つん這いになりながら呼吸を整えている優貴菜に私は謝った。いつものように文句をぶつけてくるかと思ったが、予想に反し、彼女は楽しげに微笑んだ。
「いいわよ。那奈と二人での旅行は、この先、出来なくなるかも知れないんだし。最後のいい思い出ってことで」
さすがは昔、修験者が訪れた場所と言うこともあり、“氷室神社”という立派な名前に比べ、とても小ざっぱりとした神社だった。一応、色褪せた鳥居と小さな社(やしろ)はあるが、社務所のようなものはなく、常に無人らしい。手水(ちょうず)もなければ、絵馬をかける場所もなかった。まるで地元の人々からも忘れ去られた祠(ほこら)のようだ。
「さあ、お参りをしましょう」
私たちは二人並んで参拝した。二礼二拍手一礼。隣の優貴菜はしばらくの間、目をつむり、何事かを祈っていた。多分、孝史さんとの結婚のことだろう。
孝史さんと出会ったのは、元々は私が先だった。
彼は、勤務先の調剤薬局によく来る、大手薬剤メーカーの営業マンだ。彼が店に来るのは仕事のためでなく、アレルギー治療で通院した帰りに、ウチの薬局で薬を出してもらうためだった。仕事柄、薬について詳しいこともあり、お店で顔を合わせているうちに親しくなったのが交際の始まりだ。
そう、孝史さんが最初に交際していたのは優貴菜ではなく私だ。私は孝史さんの誠実さに惹かれた。それまで男性との交際があまりなかった私が、ゆくゆくは結婚をしたいと真剣に考えるほど、彼との関係は深くなっていった。
ところが、そこへ優貴菜が割り込んできた。私の交際相手がどんな男性なのか、一度、会ってみたいと言うので、三人で会食する機会を作ったのがきっかけだ。
そのとき、優貴菜は孝史さんのことが気に入ったらしい。見れば分かる。そういうときの彼女を何度も見てきたから。そして、孝史さんも――
優貴菜は老舗総合商社に受付嬢として勤めており、毎日変わり映えしない白衣姿で店に立ち続けている私に比べれば、確かに華やかさのある美人だと思う。そんな彼女に私は学生時代から憧れさえした。
ところが、親友だと信じていた優貴菜に、私は恋人を寝取られた。いかに私が孝史さんのことを愛しているか、あれほど打ち明けていたのに。彼女からアプローチしなければ、孝史さんだって誘惑に乗らなかったはずだ。
その頃、私は新店舗のスタッフに抜擢され、公私に渡って目まぐるしくなった。よく孝史さんと顔を合わせていた店から離れることになるし、仕事が忙しいせいで連絡すら取れない日々。その間、優貴菜と孝史さんは逢瀬を重ね、いつしか私のことは忘れ去られてしまったのである。
すでに二人は、春になったら結婚式を挙げることが決まっていた。果たして、彼女は親友である私を披露宴に呼ぶだろうか。
私は優貴菜よりも早く参拝を終え、持って来たバックから携帯用の小さな魔法瓶を取り出した。普段、仕事場にも持って行っているものだ。私は蓋を開け、温かいホットジンジャーを飲む。
「何よ、那奈。一人でそんなもん飲んじゃって」
参拝を終え、私を見咎めた優貴菜が唇を尖らせる。
「あっ、優貴菜も飲む? 自家製のホットジンジャーなの。温まるわよ」
「いつの間にこんなものを?」
「宿を出る前にね。寒いときはこれに限るから。お蔭で、この何年か風邪も引いてないわ」
「さすがは薬剤師ねえ」
「普通は『医者の不養生』って言うけど」
「階段を登って身体が温まったと思ったけど、やっぱり、この雪のせいで冷えてきたわ。私にも頂戴」
「いいわよ」
優貴菜に言われ、私は魔法瓶を手渡した。口をつけた彼女は目を丸くする。
「うはっ! ちょっと、これ、濃すぎない?」
「そうかしら? 私はこれくらいが好みだな。ショウガとハチミツをたっぷり入れたヤツ」
「確かに、いかにも効くって感じはするけど」
そう言いながら、優貴菜はもうひと口飲んだ。
彼女は知らないだろう。この“氷室神社”が知る人ぞ知る縁切り神社だと。
許せなかった。優貴菜が孝史さんと結婚することを。別れさせてやる。絶対に。だから、彼女をここへ連れて来たのだ。
何も知らない優貴菜は、私の自家製ホットジンジャーを飲み終えると魔法瓶を返した。まだ半分くらいは残っているだろうか。私は蓋をした。
「神社への参拝も済んだし、宿へ戻りましょうか。帰ったら、速攻で温泉に入って温まらなくちゃ」
魔法瓶をバックに仕舞いながら、私は来た道を戻ろうとした。
そのとき――
「――ッ!?」
私は強く背中を押された。身体が前へとつんのめる。目の前には、決して都会では味わえない、見晴らしのいい雪景色が何処までも広がっていた。
私は落ちた。魔法瓶を仕舞うことに気を取られていたせいで、とっさに何の対処も出来ない。急な階段の上をかなりの勢いで落ちる。身体のあちこちをぶつけた。手足が不自然に捩じれ、首にも激痛が走った。雪が積もった階段は冷たいはずなのに、私の全身はまるで焼かれているみたいだ。どれくらいの時間、転げ落ちただろう。
途中で気を失ったのか、いつの間にか階段の一番下まで落ちていた。体中が痛くて身動きが出来ない。近くには口の開いたバックから飛び出した魔法瓶の水筒が転がっていた。
そこへゆっくりと足下の安全を確かめながら神社の階段を降りて来た優貴菜が、倒れている私のそばに立った。いつもの愛らしさなど微塵もない、ゾッとするような目つきで虫の息の私を見下ろす。
「あら、まだ生きているじゃない。あの高さから落ちて、てっきり死んだものと思ったけど。――でも、残念。こんなところではスマホも繋がらないから、助けを呼びたくても呼べないわ。これから私が宿まで歩いて、救急車を呼んでもらっても、きっと手遅れでしょうね」
そう喋る優貴菜はどことなく嬉しそうだった。目撃者もいない中、私は彼女によって階段の天辺から突き落とされたのだ。雪の中、滑りやすい階段から誤って転落――そういう不幸な事故として警察には処理されるに違いない。
「私が知らないと思っていたんでしょ? ここが縁切り神社だって。結婚を目前に控えた親友にひどいことをするのね。だから私も祈ったわよ。あなたと孝史さんの縁が切れるようにって」
すると神社の神様は優貴菜の願いを叶えたということだろうか。となれば、ご利益は確かだとの証明になる。
「那奈が私と孝史さんを別れさせたがっていたのは知っていたわ。元々、孝史さんが好きだったのは、あなただったしね」
「………」
私は言葉を返したかったが、口の中は血の味にあふれ、何も喋れなかった。どうやら、このまま死ぬらしい。意識だけでもあるのが不思議なくらいだ。
「でも、今さらどうしようもないのよ。私のお腹の中には孝史さんの赤ちゃんがいるんですもの。もう、あなたがどうこう出来る問題じゃないのよ」
知っていた。だから孝史さんは私と別れ、優貴菜との結婚を決めたのだと。彼は男としての責任を取ったのだ。
「これから孝史さんと結婚するというのに、これ以上、那奈に邪魔されちゃ困るのよ。だから、こうしたの。分かってもらえたかしら? ――そういうことだから。さようなら、那奈」
別れの言葉を残すと、優貴菜は私を見捨て、この場から去ろうとした。
ところが、二、三歩進んだところで優貴菜の足が止まった。しかも急に下腹部の辺りを押さえると、そのまま立っていられなくなったのか、地面に両膝をつく。
「うっ、うううっ……いっ、痛いっ……!」
顔をしかめながら身体を折ると、苦しそうに優貴菜は呻いた。怯えた目で血まみれの私を見る。
私が縁切り神社に誘う程度で許すと思ったのだろうか。
「な、那奈……あなた……なっ……何をしたの……?」
私は薬剤師だ。一般の人よりも薬には詳しい。
妊婦には色々と服用してはならないものがある。それが胎児や母体に悪影響を与える場合も。
さっき優貴菜が飲んだホットジンジャーに入っていたのは、ショウガとハチミツだけではなかった。
もちろん、調剤薬局からそういった薬を盗み出すのも不可能ではない。でも、私は薬剤師だ。プロとして、そのようなことはしない。
こっそり薬を盗まなくたって、市販のもので充分に代用は可能だ。例えば、便秘に効くという生薬由来のお茶がある。それを大量摂取すると、普通の人ならお腹を下す程度だが、妊婦の場合、子宮収縮を起こす――そう、彼女のように。
痛みを堪え切れなくなった優貴菜は、とうとう私の横でうつ伏せになった。目から大粒の涙を流し、泣いている。
「た、助けて……お願い……助けて……」
いくら親友だからって、身動きの出来ない私に懇願されても困る。優貴菜が自分で言ったように、こんなところで助けを呼べるわけがない。子宮収縮を起こした彼女は流産し、誰にも発見されなければ、このまま失血死か凍死ということも考えられるだろう。ああ、ほら、また雪が強くなってきた。
これで孝史さんは自由になれる。
そのことが何よりも私には嬉しかった。さすがに私が優貴菜に殺されるところまでは予測していなかったが、今回の旅行における最大の目的が達せられたことには満足だ。
どうやら“氷室神社”の神様は、優貴菜だけではなく、ちゃんと私の願いも叶えてくれたらしい。
私は穏やかに目を閉じると、雪の舞う真っ白な世界から永久に閉ざされた真っ暗な世界へと堕ちた。