夜の九時過ぎ、自宅に帰り着いた私は、真っ暗な邸宅の外観を見上げて暗澹たる気持ちに陥った。中に誰もいないのは一目瞭然だ。決して仕事だけで溜まったわけではない疲労感が私をさらに萎えさせた。
玄関の鍵を開けて中に入った私は、まず照明を点けた。やはり帰っていない、と娘の靴が玄関にないことで確かめる。私は壁に手をつけて、身体を支えるようにしながら靴を脱いだ。
娘の未知がいなくなって、すでに一週間以上。旅行など、数日から数週間、家を離れるようなら、必ず私に言ってくれていた彼女が、ここまで長く音信不通のまま行方知れずになるなんてことは今までになかったのに。
妻は早くに亡くなり、私たちはずっと父娘二人暮らしであった。きっと母親がいないせいで寂しい思いをしたことも多かったはずだが、未知は常に明るく振舞ってくれたし、中学生になった頃には積極的に家事もやるようになって、私を大いに助けてくれた。
その分、私は未知を幸せにするため、経営する事業の拡大に勤しみ、経済的に何不自由のない生活を送らせようと努めた。もちろん、仕事に没頭するばかりではなく、時には娘との時間を大事にし、旅行などの思い出作りも決して欠かさないようにしながら。
自分で言うのもおこがましいかもしれないが、私と未知の関係は一般家庭の父と娘よりも遥かに良好であるとさえ断言できる。だからこそ、この突然の蒸発は私を人生のどん底へと突き落とすに充分なものだった。
当初、誘拐を疑った私は警察へ即座に相談した。私が企業の社長ということで、警察も身代金目的の誘拐かも知れないと動いてくれたが、いつまで経っても犯人から具体的な要求などがなく、次第に、もうすぐ二十歳の誕生日を迎える若い女性の気紛れな家出ではないか、という見方へと変わった。一応、行方不明者として捜索は続けてもらっているものの、どうやら事件性なしと見込んだ警察は当てになりそうもない。
私からしてみれば、未知がフラッと家出をすることの方がよっぽど有り得なかった。絶対、未知の身に何かがあったのだ。
娘が今どうしているのかを考えると、私は気が狂いそうになった。以来、眠ることも出来ないし、仕事もロクに手がつかない。心当たりがありそうな娘も友人などにも片っ端から連絡を取ってみたが、未知の行方については誰も知らないということだった。
「未知……」
自室に戻って着替えようと、私はネクタイを緩めながら二階へ上がろうとした。すると、微かにいい匂いがするのに気づき、階段を上がりかけていた足を止める。
「これは――!」
私は急いでダイニングキッチンへ向かった。匂いはここからしている。
やはり真っ暗だったので電気を点けてみると、IHコンロの上に見慣れた赤い鍋が乗っていた。しかし、未知がいなくなってから自炊していないので、鍋はシンクの上にある棚に片づけてあったはず。近づくと、鍋からは仄かに熱が感じられた。
私は蓋を開けてみた。やはり、あのいい匂いの正体はビーフシチューだ。料理上手の未知が得意にしていたメニューのひとつで、私の好物でもある。
まだ温かい。ということは、作られてから、それほど時間が経っていないはずだが。
まさか、未知が家に――
「未知……未知っ!」
ひょっとして戻って来たのか、と思った私は、家のあちこちを捜して回った。娘の部屋はもちろん、トイレやバスルームの中も。最後にはウォークインクローゼットも覗いた。
だが、未知の姿は何処にもなかった。
期待した分だけ大いに落胆した私はダイニングキッチンへと戻った。てっきり未知が戻ってくれたものと思ったのに。
でも、そうすると分からないのは、このビーフシチューを誰が作ったのか、ということだ。家政婦も雇っていないし。
私はジッと出来立てのビーフシチューを見つめた。こうしていると不思議なもので、段々と空腹を覚えてくる。ここ最近、食欲もなかったはずなのに。
未知の安否が分かるまで、父親である私が倒れるわけにはいかない。私は食器棚からスープ皿を出すと、レードルを使ってビーフシチューをよそった。
「いただきます」
テーブルに着いた私はビーフシチューをスプーンですくい、口へと運んだ。美味い。すぐに二口目をすすった。いつも未知が作ってくれるものと遜色ない。いや、それ以上の出来栄えかも。
しばらく、まともな食事をしていなかった私を、このビーフシチューは何もかも温かく満たしてくれた。五臓六腑に染み渡るとは、このことだろう。私は貪るように食した。何度もお代わりまでして。
ひとつ気になったのは、てっきりビーフだと思っていた肉がそうではなかったことだ。豚とも鶏とも違う。色々と考えてみたのだが、ちょっと何の肉なのか分からない。ただ、美味しいことに変わりはなかったので、最後まで残さず平らげたが。
「ふぅーっ」
久しぶりに腹を満たした私は背もたれに寄りかかった。一週間ぶりにまともな食事をした気がする。
ふと、テーブルの向かい――いつもなら未知が座っているはずの場所を見た。もう、かつてのように二人で食事をすることはないのだろうか。食事で得られたはずの幸福感が、たちまち不安によって押し潰されてしまう。
空になったスープ皿を下げようと、席から立とうとしたときだった。ポケットにある私のスマホに着信が。もしかすると警察が新しい情報でも得たのか、と思い、画面を目にする。
「――ッ!?」
私は息が止まりそうになった。未知からだ。
「みっ、未知ぃっ! どうした!? 大丈夫なのか!?」
電話に出るなり、私は未知に尋ねた。
ところが――
『いかがでしたか? 私が作ったシチューのお味は?』
聞こえてきた男の声に、私はギョッとした。
「だ、誰だ、お前はっ!? 娘に何かしたのかぁっ!?」
未知のスマホからかけているということは、この男が誘拐犯であるに違いない。私は怒りに震えた。
だが、謎の男の声は妙に落ち着いていた。
『私はかつて小さな洋食店を営んでいた者です。けれども三年前、あなたによって閉店へと追い込まれました。下らないデマを流されて』
「……何だと?」
私は大手ファミレス・チェーン店を経営している。日々、様々な企業努力を行いながら、全国各地に店舗を拡大し、毎年、業績を伸ばしてきた。
経営者としての私は社員に対して厳しいノルマを課してきた。新メニューの開発にはコストの面も鑑みて妥協しなかったし、売上目標を達成できない店長には過度なプレッシャーを与えたことも数知れない。
そうやって追い詰められたスタッフの中には掟破りの行動に出る者も多かった。
例えば、SNSやグルメサイトなどに、競合する他店の悪口や低い評価をわざと書き込み、客足をこちらへ向けさせるといった行為だ。
そういった話は私の耳にも聞こえてきたが、それをやめさせようとしたり、罰するようなことはしなかった。多かれ少なかれ、うちのファミレス店にだって同じことがされているからだ。お互い様だろう。だから私は黙認してきた。
その結果、客足の遠退いた小さな店や老舗が潰れるのは致し方ない。それを恨みに思うのも当然だろう。きっと、この男もそういう不幸な飲食店関係者で、私を強く憎んでいるに違いなかった。
だが――
「娘は関係ないだろう! 私を恨むなら、私自身を訴えるなり、殺すなりすればいいはずだ! 娘には何の罪もないっ! 今すぐ娘を返せっ!」
私は男に迫った。目尻には涙が滲む。
『それよりも、私が作ったシチューの感想をまだ伺っていません。どうでしたか? あなたのお店で出すものよりも遥かに美味しかったと思いますが』
なぜか男はシチューの味にばかりこだわった。そのとき、私はハッとする。
「ま、まさか……!? 貴様、毒を――!?」
私は喉を押さえた。この男は料理で私に復讐するつもりでは――
『早とちりしないでください。私は自分の作った料理に毒なんて入れませんよ。ほら、身体に異常なんてないでしょう?』
男の言う通りだ。落ち着いて自分の体調を確かめる。やや動悸はするものの、これは誘拐犯と会話しているせいであって、毒の影響があるわけではない。
「じゃ、じゃあ、何が目的だ!? 金か!? だったら一億だろうと十億だろうと払ってやる! だから娘を返せ!」
本気だった。未知のためなら、金など惜しくはない。警察に黙っていろ、というのなら、それにも従うつもりだ。
『お金で何でも解決できると思っているのですか? 世の中、お金だけじゃないでしょう?』
「どういうことだ!?」
『あなたと同じですよ。私は店の他に、もうひとつ大事なものを……何ものにも代えがたいものを失った……愛娘を』
「なっ、何ぃっ……?」
『三年前、店を潰した私は病気にかかってしまった。妻には先立たれており、まだ高校生だった一人娘は自主退学し、働いて私の借金を返そうとした……』
「………」
一緒だ。この男も私と同じく、娘と二人暮らしだったのだ。
『けれども、アルバイトの掛け持ちが祟ったため、満足に睡眠時間すら取れず、ある夜勤明けの朝、信号待ちをしていた交差点で立ち眩みを起こし、運悪く走って来たバイクに轢かれて死んでしまいました』
「………」
『分かっていただけましたか? 店が潰れなければ借金をする必要などなく、私が入院することになっても、娘が高校を中退してまで働く必要はなかったんですよ。あなたも長年、娘さんと二人暮らしだそうですね? 私の気持ちは分かっていただけるんじゃないですか?』
「ああ……」
口の中が渇いていた私は返事が掠れ気味になった。
『祖父の代から受け継いだ洋食店が潰れてしまったのは、きっと私の腕が至らなかったせいでしょう。ちゃんと美味しい料理をお出しできていれば、どのような風聞を流されても常連の客さんはついて来てくれたでしょうから。ですが、そのことと娘のことは別です。あなたのせいで私は生き甲斐を失ったのですから!』
「も、申し訳ございません……」
私は心より謝罪した。この父親を自分を重ね合わせる。そのような形で未知を失ったら、私も同じ恨みを持つだろう、と。
『今さら謝罪など無意味です。死んだ娘は返って来ません。それよりも、あなたには私と同じ絶望を味わってもらうことにしました』
「ま、まさか――!?」
私は青ざめた。最悪の事態が頭を過る。
すると、男は急に笑い始めた。これまで、ずっと冷静な口調で喋っていたので、その変容にゾッとする。
『絶望を味わってもらう、か……我ながら言い得て妙なことを口走ったものです』
「ど、どういうことだ……?」
『もう一度、お尋ねします。私の作ったシチューはいかがでしたか? 美味しかったでしょう? 何しろ、今回はあなたのために特別な材料をわざわざ用意して料理したのですから』
「と、特別な材料だって……?」
『ええ。分かりませんか? では、ヒントを。それは“特別な肉”です。私も数々の料理を作って来ましたが、初めて扱う食材だったので、下処理から味付けまで非常に苦労しましたよ。でも、娘さんを愛するあなたならば、きっと気に入ってもらえたと信じています。何たって肉親なのですから』
「まっ……まさか――!?」
『どうやら気づいていただけたようですね』
「うっ……うげえええええええっ!」
たちまち気分が悪くなった私は、たった今食べたばかりの特別な料理――未知の肉で作られたシチューを胃からすべて吐き出した。
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