バタン、と勢いよく閉まった古いスチールドアに背中を押されたオレは、危うく玄関に倒れ込みそうになった。
日付が変わる頃には大型の台風が最接近すると報じられており、すでに暗くなった外はひどい暴風雨に見舞われている。オレは差していた傘を帰宅途中に飛ばされてしまい、不運にもずぶ濡れの状態でマンションの自室まで辿り着いた。
大袈裟な表現などではなく、まるで服を着たままプールにでも飛び込んだような有様だった。スニーカーの中に水が入ったせいで、歩くとチャプチャプいうし、濡れた服が全身の体温を急速に奪ってゆく。
このまま部屋に上がるわけにもいかず、オレは玄関で着ているものを脱ぐことにした。一人暮らしなので何の遠慮もいらない。ただ、雨を含んだ衣服が肌にまとわりつき、すべてを脱ぎ捨てるまで、かなりの重労働を強いられた。
ようやく真っ裸になったオレは、濡れた服をまとめて洗濯機の中へ放り込むと、そのままバスルームに行き、熱いシャワーを頭から浴びた。冷えた身体にじんわりと温かさが沁み込むようだ。
しばらくの間、オレは身動ぎひとつせずシャワーを浴び続けた。足下の排水口に吸い込まれてゆく水の流れをボーっと眺める。ふと、悪夢のような記憶が甦った。
「――ふざけんなぁ、てめえっ!」
怒りに任せて拳を振るうと、それほど意図したわけでもないのに、自分でも驚くくらい相手の顎を直撃していた。
オレが殴ったのは会社の同僚だった。仕事についてならばともかく、個人的な趣味趣向を社内で揶揄され、恥をかかされたのがそもそもの原因だ。その場は他の同僚の取り成しもあって矛を収めたが、退社後、駅へ向かうそいつの後ろ姿を見つけたら、もう一度、口論を吹っ掛けずにはいられなくなった。
ところが不運というのは重なるもので、オレのパンチを受けた同僚は、倒れた拍子に街路脇の大きなプランターに思い切り頭を打ちつけた。
あっ、と後悔したときは、もう手遅れだった。その瞬間がスローモーションとして脳裏に刻まれる。
オレは血相を変えて、すぐ横臥した同僚の身体を揺さぶってみたものの、わずかな反応すら示さない状態で、代わりに止めどなく溢れた真っ赤な血が大量の雨水と溶け合うようにして排水口へと流れ落ちていた。
(ま、まさか、自分が殺人を犯すことになろうとは……!)
救急車も呼ぶことが出来ず怖くなったオレは、その場から逃げ出した。
もしかしたら目撃者がいたかもしれないが、逃げるのに精一杯だったので分からない。けれども、この視界すらも遮る大雨だ。顔は傘で隠れていただろうし、知人でもなければ、はっきりオレだとは分からなかったはずだ。
それから、どうやって自分の部屋まで帰ったのか、よく覚えていない。会社を出るときは持っていたはずの傘もいつの間にか失くしていた。
もう同僚の遺体は発見され、警察に通報されているだろうか。このオレが犯人だという、何か犯行の証拠を残っていて、こちらに捜査の手が伸びている頃かも知れない。
シャワーを浴び終えたオレは食事をする気にもなれず、着替えてからベッドに倒れ込んだ。警察に自首すべきか、自問自答する。
犯行時の光景が目に焼き、興奮から眠れないのではないかと不安になったが、思ったよりも肉体的な疲労が溜まっていたようで、気づかないうちに深く沈み込むような睡魔に襲われていた。
オレは何もかもを忘れ、ひたすら泥のように眠った。
――それから、どれくらい時間が経過しただろう。
ビーッ、という耳障りな音にオレは起こされた。
部屋の中はまだ真っ暗だ。窓のサッシを叩く風の音が凄まじい。まだ朝になっていなかった。スマホで時刻を確認すると夜中の三時を少し回ったところだ。
オレはベッドの上でジッとしていた。まだ部屋には、ブザー音がうるさく鳴り響いている。
何の音なのか、思い当たるまでに少し時間を要したが、玄関の呼び鈴だと気づいた。ウチのマンションは築五十年という古さで、様々な補修や改装を繰り返しているが、この部屋の呼び鈴はまだ使えるということで当時のままだった。
何しろ年代物で、『インターフォン』どころか、『ピンポン』とも呼べる代物ではなく、ボタンを押している間、ずっと鳴る仕組みの『ブザー』と呼んだ方が正しい気がする。
普通、訪問者がボタンを押すのは一秒か二秒くらいのものだが、外にいる人物はかなりしつこい性格のようだ。こんなに長く呼び鈴を鳴らし続けるヤツなんて、悪質な借金取りでもなければ、お目にかかったことがない。お蔭で、これが呼び鈴の音だと気づくのに遅れてしまったではないか。
夜中に訪問してくるのも非常識だし、呼び鈴の鳴らし方も不愉快だ。オレはひとつ怒鳴りつけてやろうと大股で玄関に向かった。
訪問者は呼び鈴だけでなく、ドアもノックしているようだった。ガン、ガン、とスチールドアならではのガラクタみたいな音が外側から響く。オレは腹が立った。
鍵を外そうとしたオレは、ドアに伸ばしかけた手を止めた。
(待てよ――こんな夜中にいったい誰がウチに?)
夜中の三時に訪ねて来るような友人など、オレの狭い交際関係の中で思い当たる人物はいない。しかも今夜は、数年に一度あるかないかの暴風雨が荒れ狂っているのだ。そんなときに、わざわざウチになんか来るだろうか。
(ひょっとして、警察が――!?)
もう同僚を手にかけたのがオレだとバレたのなら、この訪問理由について説明できそうだ。まさか、こんなに早くオレのことを突き止めるなんて。
「くっ……!」
オレは警察かどうかを確かめるため、ドアについた覗き穴から外の様子を窺ってみた。
「ん……?」
いくら夜とはいえ、玄関前の外廊下には蛍光灯がついている。誰かが立っているなら見えないということはない。
けれども、外には誰もいなかった。もちろん、こちらからの死角に身を隠しているわけでもなさそうだ。
どうやら警察ではなかったらしい。
だが、それならば今もずっと鳴っている呼び鈴は誰が押しているんだろう?
誰が玄関のスチールドアを叩いているんだろう?
ビィィィィィィィッ!
がん! がん! がん……!
ビィィィィィィィッ!
がん! がん! がん……!
二つの音が延々と続く。途絶える気配など、まったくない。
オレは怖くなった。
玄関の外にいるのは、得体の知れない何かしらだ。
そいつは目で姿を捉えることが出来ず、ただオレがいるこの部屋へ入ろうと、ひたすら呼び鈴とノックを続けているに違いない。
「まっ……まさかっ!?」
もしかして死んだ同僚が、自分を殺害したオレに復讐しようと化けて出たのではあるまいか。
ひゅぉぉぉぉぉーっ!
「ひぃぃぃっ――!」
猛烈な風の音が、あたかも同僚が発した怨嗟の声であるかのように聞こえる。
背筋がゾッとしたオレは寝室に取って返した。ベッドの上でタオルケットを頭から被り、外にいる同僚の霊魂が早く立ち去ってくれるのを祈る。
「た、頼むっ! 成仏してくれっ……!」
オレは身体を丸めながら、ガタガタと震えた。
翌朝、台風は太平洋上へ去ったようで、昨日の荒天が嘘のように澄んだ夏空が広がっていた。
「………」
眠れぬ一夜を過ごしたオレは、呼び鈴もノックも聞こえなくなった玄関から、そっと頭を出してみる。
ドアノブには回覧板が引っかけてあった。多分、オレが帰宅した後に隣の住人がかけて行ったのだろう。あんな夜にわざわざ回す必要もなかっただろうに律儀な住民だ。雨に濡れた回覧板はびしょびしょだった。
「あっ……!」
これでノックの音の正体が判明した。風に揺られた回覧板がスチールドアを叩き続けていたのだ。あの凄まじい風の勢いなら考えられなくもない。
同時に、鳴らし続けられた呼び鈴についても、これと同じことが起きていたのだと気づく。あのとき、風は玄関の真正面から吹き込んでいたため、粗末な仕組みで出来ている呼び鈴のボタンが風圧によって押され続けていたに違いない。
道理で覗き穴から外を見ても、誰もいなかったはずだ。
「はっ……はははははっ……」
タネが分かれば、どうということはなかった。オレは寝不足のひどい顔で力なく笑う。
これに懲りたオレは、朝のうちに警察へ出頭することを決めた。
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