「サチコ……」
病院前の停留所でバスから降りた私の背に、そう呼びかける女性の声があった。
一体、誰だろう。聞き覚えのない声だ。いきなりのことに驚いた私は病院へ向けかけていた足を止め、後ろを振り返ってみた。
そこにいたのは年老いた女性だった。入院用と思われる水色のパジャマにピンクのカーディガンを羽織った姿で、一目で病院を抜け出してきたらしいと分かる。しかも、どういうわけか私の方へ両の手を伸ばしながらよろよろと近づいて来るではないか。
この寒空の下、外を出歩くような格好ではない。おまけに、杖こそ突いていないが、かなり危なっかしい足取りをしている。
こちらへと真っ直ぐに向けられた老女の瞳に、私は尋常ではないものを感じてたじろいだ。そこには私の姿が映っていながら、それでいて私自身を認識していない訝しさがあった。
「あの……」
私は咄嗟に言葉が出て来なかった。何と答えればいいか、いきなりのことに思考能力が鈍ってしまったかのようだ。
そこへ、私と同世代らしき女性が小走りで駆け寄ってきた。
「お母さん、こんなとこに! 捜したのよ!」
慌てた様子の女性は、私の方へと歩み寄ろうとする老女を制止するように、背後からグッと両肩を掴んだ。ハッとした老女は細い首をねじるようにして、自分を呼び止めた女性の方に顔を向ける。
「………」
予想に反し、老女は拒絶するわけでもなく、女性に肩を掴まれたまま動きを止めた。たった今、自分がしていた行動を忘れてしまったかのように大人しくなる。
女性は一瞬ホッとしたような表情をした後、見ず知らずの私に向かって深々とお辞儀した。
「すみません! ウチの母がご迷惑をおかけしてしまって!」
「い、いえ……」
半ば茫然としながらも、大したことはなかった、と私は弱々しく手を振った。
「最近は認知症が進んだせいか、家族の顔も分からなくなってしまったようで、見知らぬ人を誰かと間違えてしまうんです。本当にごめんなさい」
女性は何度も頭を下げた。謝意を表しているのは間違いないが、ともすると、早くこの場を収めて立ち去りたい気持ちも透けて見える。認知症の母親が今回のようなトラブルを頻繁に起こしており、いい加減、見ず知らずの人に謝るのも億劫になっているのかもしれない。
「あっ、あの……病気では致し方ないと思いますので、どうぞ責めないであげてください。私はびっくりしただけで、不快なことは何もありませんでしたので」
女性に気を遣わせないよう私は慎重に言葉を選んだ。それがどこまで相手に伝わったかは分からないが。
「ご理解くださり、ありがとうございます。そう言っていただけると、こちらも助かります。――ほら、お母さん。病室へ戻りましょ。看護師さんたちも心配しているんだから。――では、私たちはこの辺で」
歩行の介助をしてやりながら、彼女は抜け出してきた病院へ戻ろうと母親を促した。
老女はずっと受動的で、返事をすることすらなかったが、何の抵抗も示さず娘の言う通りに従った。
私はただ黙って立ち尽くし、遠ざかって行く母娘の後ろ姿を見送った。隣にいる娘よりも小さく丸まった老女の背中が長い年月を経て来たであろう老いの寂しさや憐れを感じさせる。
すると去り際に、
「――っ!」
不意に老女が振り返ったので、私はまるで心臓を鷲掴みされたかのようにドキッとした。最初に声をかけられたときよりも動揺する。
けれども、狼狽した私とは裏腹に、老女は何事もなかったかのように前へ向き直ると、歩幅の小さな足取りでバス乗り場から離れて行ってしまった。
二人の姿が病院の中に消えるまで、私はずっと微動だにせず見送ったが、結局、老女がこちらを振り返ることはもうなかった。
はぁーっ、とようやく極度の緊張を解いた私は大きく息を吐き出した。どうやら自分でも知らないうちに呼吸を止めてしまっていたらしい。また、口の中が乾いていたのは、湿度の低い真冬という季節的なものだけではないだろう。
「偶然だったのかしら……それとも……」
私はこちらを見つめてきたときの表情の乏しい老女の顔を、その凝視する無感情な瞳を思い出していた。
――あれが母か。
かれこれ四十年以上も前になるというのに、私には揺るぎない確信があった。
当時まだ小学校に入学したてだった頃、私の母は何の前触れもなく家から出て行ってしまった。父とは違う男と駆け落ちしたのだ。幼い私を置きざりにして。
最初こそ母がいなくなったことでショックを受けたし、一人っ子ゆえに寂しく、毎晩、布団の中で泣いてばかりだったが、父はよく私の面倒を見てくれ、次第に二人だけの生活にも慣れていった。父が仕事でいないときは慣れない家事をやらなくてはならない苦労はありながらも、無事に大学まで卒業できたし、就職先で出会った夫と結婚して新しい家族も作ることが出来た。
特に裕福というわけではないが、子供もとっくに成人して独立し、今では慎ましくも穏やかな生活を送れている。私と父を捨てた母を思い出すことも、最近は滅多にない。もう母は私とは関係のない人なのだ。
ところが二週間ほど前、学生時代からの母の親友で、私の実家の近くに住んでいる吉野さんという方とたまたま顔を合わせたとき、「ひょっとすると、あなたのお母さんかも」という驚くべき話と、ここの病院を教えてもらった。通院しているとき、入院患者らしき母を見かけたらしい。
すれ違った程度だから確証はない、と口にはしていたが、古くからの旧友がすぐに気づいたからには、四十年以上の年月が流れていても、同一人物である可能性は高いと思われた。
けれども、それを教えてもらったところで、私にはどうすればいいのか分からなかった。今さら母に会って、私を捨てて行ったことへの恨み言を浴びせればいいのか。そんなことをしたところで、あの頃に戻ってやり直せるわけでもない。それとも、私と父よりもどこの誰とも分からない男の方を選んだ母を許せとでも言うのか。
母に会うつもりなど微塵もない。ところが、日に日に母のことが頭から離れず、私の心を波立たせた。もう母のことなど何とも思っていないはずだったのに。長らく私だけの秘密にしてきたが、とうとう耐えかねて夫に打ち明けた。
すると夫は、
「じゃあ、離れた場所から顔だけでも見て来たら? 別人かもしれないけど、もし君のお母さんなら、そのときは……そのときはどうしたいのか、自分の心に従って決めればいい」
その言葉に私は決意を固めた。とりあえず、母かどうかを確かめようと。
それから後のことは何も決めていなかった。そもそも、ちゃんと母だと分かるか自信もない。あれから四十数年なのだ。昔の面影を残しているだろうか。あまりにも年月が経ち過ぎている。
それでも――
というわけで、私は今日、母の旧友が教えてくれた病院を訪れてみた。まさかバスを降りた途端に、その当人と遭遇できるとは思いもしなかったが。
あの付き添いの女性は、ひょっとすると私の妹に当たるのかもしれない。もしそうなら、私よりも七つ以上は若いはずだが、母の介護で苦労しているのか、むしろ彼女の年齢の方が上に感じられた。彼女一人に負担を負わせるのは申し訳ない気もしたが、どうかこれからも母のことをよろしく頼みたい。
ある程度の覚悟はしていたものの、老いさらばえた母の姿を目にするのは心が痛んだ。しかも認知症とは。
私の記憶している面影がすっかり薄れてしまった母に、掛ける言葉は何も思い浮かばなかった。ぶつけるべき恨みつらみもない。相手はもう老い先短い身の上だ。
呆気なく目的を達した私は病院へも行かず、そのまま帰りのバスを停留所で待つことにした。もう、ここへ来ることも、生きて母に会うこともないだろう。
「さようなら……お母さん……」
私は心の中でひっそりと別れを告げた。
それにしても――
バスから降りたとき、「サチコ」という私の名前を呼んだのは、本当に認知症のせいだったのだろうか。それともバスから降りた私をほんの一瞬見かけただけで、実の娘だと気づいたからか。かつて捨てた長女の名を口にしたのは果たして何年ぶりだろう。
どうせ確かめようとしても無駄だろう。数分前のことだって、きっと憶えていないのだろうから。
私は母のいる病院を振り返ることなく、時間通りに到着したバスに乗り込んだ。私の背中を押してくれた夫に、どう報告しようかと考えながら。
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