RED文庫]  [新・読書感想文



そのボタンを押すべからず


「疲れた〜」
「ああ、ホントになぁ」
「どっかで飯でも食ってから帰ろうぜ」
「そう言やぁ、この近くに新しいファミレスが出来たよな?」
「確かに。でも、あまり聞かない名前の店だったような……」
「ちょっと試しに行ってみねえか?」
 予定外の残業で遅くなった仕事帰り、同期入社で仲のいい田無(たなし)と在原(ありはら)は空腹に耐えかね、新しくオープンしたファミレスに入った。馴染みのあるチェーン店ではなく、どうやら今時珍しい新規参入の店舗らしいが、中へ入ってみると普通のファミレスとそんなに違いはない。そこそこ空いていたので、入口で待たされることもなく窓際に面したテーブル席へ案内された。
「さーて、何を食おうかな」
 最近のメニューはタブレット式になっていて、そのまま注文も出来るところが多いが、この店は昔ながらの形式らしい。様々な種類の料理が載ったページをめくっていくと、小さな画面よりも大写しになった写真の方が美味しそうで、食欲がそそられる気がする。
「俺はやっぱりデミグラスハンバーグ・セットかな」
「じゃあ、俺はねえ……本ズワイガニの黄金クリームソース・パスタにしよ」
 あっさりとメニューを決めた二人は、注文をしようとテーブルの端に置かれた呼び出し用のボタンに手を伸ばしかけた。ところが――
「お、おい……そのボタン、『押さないでください』って書いてあるぞ」
「は? んな、バカな!?」
 在原に指摘された田無は呼び出しボタンの側面にテープで貼り付けられた日本語を読んだ。
「『ボタンを押さないでください』? まさか! 冗談だろ!?」
 しかし、何度見返しても読み違いなどではない。確かにそう書かれている。
「何かの間違いじゃないか? そもそも、押しちゃいけないようなボタンを客席に置くなんておかしいだろ」
「でも、わざわざ注意書きがされているんだぜ。怪しいと思わねえか?」
「ふん、自爆ボタンでもあるまいし。なーに、試しに押してみりゃ分かるって」
「お、おい、よせよ!」
 慎重でトラブルを極度に恐れる性格の在原は、後先を考えずに行動しようとする田無を止めた。田無が伸ばした右手首を焦ったように掴む。ボタンを押すのを阻止された田無は剣呑そうに眉をひそめた。
「そこまでビビるようなことか?」
「何かあってからじゃ遅いんだぞ。ボタンを押したせいで、取り返しのつかないことでも起きたら、こっちが責任を取らされるかもしれない。しかも注意書きを読んでおきながら、それを無視したってことになれば、尚更、悪質だと見なされる」
「………」
 田無は呆れた。ここはファミレスだ。危険物でも取り扱っている工場にでもいるのなら安全に気を配らないといけないのは当然だが、このような飲食店でそのような必要性があるだろうか。
 そこへアルバイトであろう、ウェイトレスの女の子が通りかかった。スタッフが揃っていない中、見切り発車で開店したのか、どうやらこの時間帯は彼女が一人でホールを担当しているらしい。この席へ案内してくれたのも彼女だった。
「あのっ! す、すみません! 注文いいですか?」
 ウェイトレスが来てくれるのなら、わざわざ呼び出しボタンを押す必要はない。田無に操作を断念させようと、在原の必死さは滑稽に見えるほどだった。
「お決まりですか?」
 ウェイトレスはポケットから注文用の端末を取り出した。これも以前はよく見られた光景だが、タブレット化された最近では懐かしささえ覚える。
「本ズワイガニの黄金クリームソース・パスタと……デミグラスハンバーグ・セットだったっけ?」
「ああ、うん」
「そ、それでお願いします」
「本ズワイガニの黄金クリームソース・パスタとデミグラスハンバーグ・セットをおひとつずつですね。かしこまりました」
 ウェイトレスは端末を操作すると、その場から立ち去ろうとした。
「あっ、お姉さん。ちょっといい?」
 すかさず田無は、背中を向けかけたウェイトレスを引き留めた。
「はい、何でしょう?」
「この呼び出しボタンに、『押さないでください』って書いてあるんだけど」
 するとウェイトレスは恭しく会釈した。
「ありがとうございます。ちゃんと注意書きを読んで、ボタンを押さないでくれたんですね」
 笑顔で感謝の言葉を述べたウェイトレスに、二人は面食らってしまった。まさか礼を言われるとは。
「あ、あの……念のために聞いておきたいんですけど、これを押したらどうなるんですか? ひょっとして、ボタンが壊れているから、直接、声掛けをしてくれってことですか?」
「いえ、ボタンは壊れておりません。普通にお使いいただけます」
「へ? じゃ、じゃあ、どうして……?」
「それは、ただのお願いです。個人的に使って欲しくない、という」
「はあ……」
 二人には彼女の言っている意味が分からなかった。
 ウェイトレスはもう一度、一礼をしてから調理場のある奥へと引っ込んだ。
 それを眺めていた店長は、ホールから戻って来たウェイトレスの女の子に苦々しい表情を浮かべていた。
「まったく、勝手にあんな注意書きを貼り付けて!」
 店長の小言にも、新人のウェイトレスはまったく動じなかった。
「だって、あんなボタンひとつでホイホイ呼び出すなんて、いくら相手がお客様だとは言え、何かムカつくじゃありませんか。こっちの都合なんてお構いなし。私、そんな機械的に仕事をこなしたくありません。それにボタンを押したお客様の対応をしないと言っているわけでもないですよ。呼ばれたら、快くというわけには参りませんが、無視せずにちゃんと行きますから」
「当たり前だろ。それが君の仕事じゃないか」
「お言葉ですが店長。だったら注文の受付けをタブレット式に変更するか、ホール担当のアルバイトをもっと増やしてください。目が回るような忙しさの中、私一人にホールの対応をさせておいて、ブラックだって訴えられないだけマシだと思って欲しいですけど。こっちも身体はひとつしかないんですから、少しでも私の気分を害さないような仕事の仕方をさせてください」
 自分の娘とそう変わらないであろうアルバイトの小娘に対し、強気に出られない新米店長は返す言葉もなかった。


<END>


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