RED文庫]  [新・読書感想文


【最新作】


奇跡の生還の秘密


「大丈夫か、大前(おおさき)くん!」
 斜面の底に辿り着いた鳥養(とりがい)は、雪の上に横たわっている青年に声をかけた。大前は意識があるらしく、とりあえず右手を挙げて応える。
「だ、大丈夫です」
 大前は自分の身体に怪我がないか確認するように、その場でのっそりと体勢を変えてみた。痛みに呻くこともないのを見て、鳥養はようやく安堵する。
「……良かった、無事で」
「でも、かなり滑落してしまったようですね」
 大前は自分が落ちて来たところを見上げようとしたが、吹きつけてくる大量の白い雪が見えるだけで、他は漆黒の闇に溶け込んでしまい、何の判別も出来ない。まだ日没の時間には早いはずだが。
 二人は同じマンションの住人だ。三十代半ばの鳥養と大学の卒業を目前に控えた大前に、それ以外の接点があるとは思えなかったが、ある日、山合宿から帰って来た大前の姿を見て、鳥養は彼が同大学登山部の後輩で、偶然にも自分がOBであったことを初めて知った。
 山登りが趣味だと互いに分かった途端、十歳以上もある年齢差も関係なく、二人はあっという間に親しい友人同士になれた。これまでに登った数々の山の話はもちろんのこと、実際にいくつかの登頂に二人で出掛けたこともある。山では互いに信頼できるパートナーだと認め合った。
 だが、どんなに登り慣れた山でも、突如として牙を?くことがある。山を知り尽くしたはずの熟練者にさえ容赦なく。
 このK山に登るのも二人は初めてではなかった。いつものように雪山を楽しむつもりでいたのだ。ところが予測よりも早かった天候の急変。視界が悪くなった中での下山で大前が足を踏み外してしまい、滑落するという最悪のアクシデントに見舞われた。
 ルートから大きく外れてしまったため、もうどちらに進めばいいのか分からない状態だった。下手に動けば、また滑落という憂き目にも遭いかねない。
 あとは、この場でビバークするという手もある。動かずに救助を待つのだ。
 とは言え、その選択肢にも懸念があった。すぐに下山する予定だった二人は、ある程度の装備しか用意してきていない。それに対し、この先の気象予報だと約一週間くらい激しい降雪が続くとあった。救助隊は天気が回復するまで動けないだろうから、その前にこちらの体力と食料が尽きてしまう。
「すみません、僕がもっと注意を払っていれば……」
 滑落した責任を感じ、大前は力なくうな垂れた。
 いいや、と鳥養が首を横に振る。
「俺がもっと早く下山の判断を下さなかったのが悪いんだ。俺が天候を見誤ったせいだ」
「ですが――」
「やめよう。そんなことを悔いていてもしょうがない。今はどうやって助かるかを考えないと」
「……はい」
 大前は不安そうな顔をしていた。遭難した経験がないのだろう。
 その点、鳥養には豊富な経験がある。危険な体験も一度や二度ではない。それを潜り抜けてきたことで、このようなときでも絶望を覚えることはなかった。第一、未来ある若者をこんなところで死なせてなるものか。大前を無事に下山させることこそ、登山部のOBたる鳥養の責務だ。
「大前くん、歩けそうか」
「はい。骨折とかはしてませんから歩けそうです」
「じゃあ、俺から絶対に離れないよう、しっかりと付いて来てくれ」
「下山を続けるんですか?」
「ああ。心配するな。俺には秘策があるんだ。これを使えば、無事に家まで帰れるさ」
 そう言うと、鳥養は懐に隠し持っていたウイスキーの酒瓶を取り出した。
 大前が怪訝な顔をする。
「こんなときにお酒ですか? ひょっとして、これを飲んで体を温めようと?」
 鳥養はニヤリと笑うと、酒瓶の蓋を捻った。




「ああ、神様……」
「大丈夫よ、真姫(まき)ちゃん。ウチの夫(ひと)が一緒なんだから、大前くんは必ず帰って来るわ」
 下山を予定していた日の三日後、鳥養家には妻の志津(しず)と大前のガールフレンド、富士川真姫が身を寄せるようにして、二人の無事を祈っていた。志津には何度か連絡が取れなくなった経験があるので、まだ余裕が見られたが、免疫のない真姫は今にも自分が死んでしまいそうなくらい顔が真っ白になっている。真紀の背中を志津は力強く擦った。
「でも……もう三日ですよ……三日も雪の中に閉じ込められたら……」
「平気、平気。ウチの夫なんて、どんなことがあろうと最後にはちゃんと家に帰って来るんだから。呆れるくらいしぶとい夫なのよ」
「だからって、今回もそうなるとは……」
 どんな気休めを言われても、真姫は心配でならないらしい。それくらい大前のことが好きなのだろう。あまりの健気さに、自分にもこんな時期があったのよねえ、と志津は遠い昔を思い出す。もう絶対に取り戻せないものだが。
 悲壮感を高める真姫を宥めていると、志津は聞き覚えのある声を耳にした気がした。外からだ。この声には思い出したくない記憶の方が多い。でも、今日に限っては嬉しさが込み上げてきた。
 志津は窓のサッシを開けた。
「おーい、帰ったぞぉぉぉぉぉっ!」
 それは馴染み深い夫の銅鑼声だった。やっぱり帰って来たか、と志津は思わず口許を緩ませる。鳥養は空になったウイスキーの酒瓶を振り回し、ご機嫌の様子だった。
 隣に立った真姫も嬉しさと驚きでクシャクシャになった表情で出迎えた。鳥養の横には大前もいる。フラフラな様子の鳥養に肩を貸してやっていた。
「大前くん――!」
 感極まった様子の真姫は、それ以上、言葉を発するのは無理なようだ。
 彼女の出迎えに気づいた大前が手を振る。
「帰ったよ、真姫。ごめん……心配させて」
「だーかーらーっ! 俺が言ったろ、必ず帰れるって! なっ! なっ!」
「は、はい……そうですね」
 大前が扱いに困るほど、自慢げに振る舞う赤ら顔の鳥養を見て、妻の志津はかぶりを振った。帰って来てくれたのは何よりだが、こうやって何度ご近所迷惑を繰り返したことか。
「確かに、大したものねえ、この人の帰巣本能は。どんなに酔っぱらっても、ちゃんと自分の家に帰り着くことが出来るんだから。万が一に備えて、ウイスキーを一本持たせて良かったわ」


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