RED文庫]  [新・読書感想文



勇気を振り絞って


 いた。あの人だ。
 七つ先の駅にある高校まで電車通学している私は、毎朝同じ時刻の急行に乗っている。乗車する場所も決まっているため、同じ車輛にはいつも見かける顔が何人かあった。
 中でも私が気になっている乗客が一人いる。ひとつ向こうのドア近くに立っているサラリーマン風の男性だ。二十代半ばから三十代手前くらいだろうか。かなりの長身なので、顔一個分くらい他の乗客より上に出ていることもあり、混雑した車内でもよく目立つ。やや色白で、短く整えられた髪の身綺麗さから生真面目そうな第一印象を受ける。
 そう言えば話は変わるが、クラスメイトのイツミは草食系男子よりもワイルドな肉食系がいいと話していたっけ。セクシーさを感じさせる髭を蓄えていると、なお好みらしい。そんなものだろうか。
 私は胸の前で右の拳を握った。心臓がドキドキしているのが分かる。一週間前、あの人を見つけ、その存在を意識するようになってからずっとだ。授業中もたまにボーっとしてしまって、勉強に身が入っていないのは自分でも自覚している。
 このモヤモヤ、ムズムズした気持ちをどうやったら晴らせるだろう。相手は歴とした社会人、こちらはまだ成人もしていない高校生だ。それだけで私は大きな溝によって隔てられているのを感じてしまう。
 私が何を言ったところで――
 元々、引っ込み思案なところのある私は、自ら何かを発するというのをしたことがない。時と場合によっては、そんなことではいけないと思ってはいるのだが、なかなか勇気を振り絞ることは出来なかった。それで何度、後悔したことか。
 でも、今回は――
「――ッ!」
 意識を現実に戻した途端、男性がこちらを見ていることに気がついた。バッチリと目が合ってしまう。私は慌てて顔を背けた。
 あまりにも緊張が高まり過ぎて、金縛りにでも遭ったように身動きが出来なくなった。私が彼を見ていたことがバレてしまっただろうか。私はおっかなびっくり、背けた顔を戻しつつ、彼の様子をこっそりと窺ってみる。
 すでに男性は別の方向に視線を移動させていた。目が合ったのは、たまたまだったか、ほんの一瞬の出来事だったか。とにかく、こちらの存在に気づかれたわけではないらしい。ふーっ、と私は心の中で大きく息を吐き出す。まるで生きた心地がしなかった。
 やっぱり、自分一人で自問自答を繰り返していても何ら解決にならない。すべきことは、やはり行動なのだ。臆病な自分自身を叱咤激励する。
 ――さあ、勇気を振り絞るのよ!
 私は自分に言い聞かせた。
 間もなく、私が降りなくてはいけない駅に到着しそうだ。その前に行動を起こさなくては今日一日を無駄にしてしまう。私は意を決して動いた。
「す、すみません……通してください」
 我ながら蚊の鳴くような声だったと思う。それでも私は身を捻りながら鮨詰めになった車内を移動し、何とかサラリーマン男性へ近づこうと奮闘する。私に押された乗客たちは、男女を問わず非難の目を向けてきた。中には苛立った舌打ちも聞こえる。当然だろう。ごめんなさい、と小さな声で謝罪しつつも、私は足を止めなかった。
 次の停車駅に近づいたらしく、電車がスピードを緩め始めた。人混みの中でもがき続けた結果、私はやっと男性サラリーマンの近くまで辿り着く。彼は他に意識を取られているせいで、こちらに気づいていなかった。
「あの……」
 私は彼の右腕を掴んだ。そのときになって、ようやく彼と視線が合う。色白の顔は、むしろ青ざめて見えた。
「あなた、痴漢ですよね? 次の駅で降りてください」
 私の言葉に周りにいる乗客たちも驚いた顔をした。すぐさま痴漢をしていたサラリーマン男性に厳しい視線が注がれる。
「ちっ……違う……!」
 卑劣な痴漢は言い逃れをしようとした。しかし、肩幅のガッチリとした他の乗客が私とは反対の腕を掴む。
「次の駅で降りろ。逃げようなんて思うなよ」
 低く怒りを押し殺したような声だった。痴漢は観念したようにうな垂れる。
「もう大丈夫だから。安心して」
 毎朝、このサラリーマンに痴漢され、涙目になりながら声を押し殺していた他校の女子生徒に、私は優しく声をかけた。


<END>


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