「はぁ〜っ、疲れたぁ〜っ」
取引先から戻って来るなり、阪本は自分の机に突っ伏した。情けない声が止めどなく洩れ出る。
そんな見られたものではない姿に呆れた課長の大村がしかめっ面で席を立つと、大仰な態度の部下に近づく。
「おい、阪本! 何だ、帰って来るなり、だらしない格好をして!」
「課長ぉ、んなこと言ったって……向こうのお偉いさん、商談よりも雑談の方が長いんですもん。しかもどうでもいい話ばかり。二時間、ジッと話を聞いているだけでヘトヘトですよ」
「いつも取引先とのコミュニケーションは大事にしろと言っているだろ? 契約書を交わすだけが仕事じゃないんだ。それに、そんなだらしない姿を社内で晒すな。皆、まだ仕事中なんだぞ」
「けど、課長ぉ……」
泣き言ばかり零す阪本に大村は閉口した。
「シャキッとしろ、シャキッと! ほら、冴島さんを見てみろ! 彼女のあの美しい姿勢! 朝からずっとパソコンの入力作業をしてくれているけど、彼女の背筋はいつもピッと伸びているぞ!」
社内きっての才女の名前を出され、阪本は重たい頭を億劫そうに持ち上げた。
冴島美嘉。入社三年目の阪本とは同期だが、業務以外で会話をした記憶がない。いくらノリの軽い阪本でも彼女は近づき難い程の美人だし、仕事の面でも有能であるのは確かだ。嘘か真か知らないが、プライベートでは副部長と不倫関係にあるとも噂されている。とにかく仕事よりも趣味を優先する阪本とは何から何までが違った。
そんな彼女を何より引き立たせているのが課長の大村も手放しで称賛を送る美しい姿勢だ。どんなにハードな仕事をこなそうとも、彼女の背が丸くなったのを課内の誰も目にしたことがない。
「冴島さんって……ずっと姿勢を正していて疲れないんですか? おまけに夏場の暑いときでもビシッとスーツを着て。僕なら絶対に真似できませんけど」
明らかに自分とは異質の生き物だ、と阪本は見なしていた。いくら会社員の鑑と周りから持てはやされようともなりたくない。
同期から珍獣でも見るような目を向けられ、冴島美嘉は何と言っていいか戸惑っていた。
「私は別に意識して姿勢を保っているわけではなく……ただ、これに慣れているので」
課内から注目の的にされたことも恥ずかしいのだろう。彼女の声はいつもより小さくなっていた。
「ひょっとして、ヨガ教室にでも通っているの?」
美しい姿勢の秘訣を探ろうと、上司の大村は興味本位で尋ねてみた。そんなそんな、と冴島美嘉は手を振って否定する。
「運動はそれほど得意じゃありませんし、習い事なんて何も」
「じゃあ、やっぱり育ちの違いなのかな。――姿勢の悪い阪本は何処かの寺にでも行って、座禅の修行でもして来たらいいんじゃないか? どうせ煩悩まみれなんだろうから、容赦なく警策に打たれて来い」
「冗談じゃありませんよ。そんなの、絶対に僕は行きませんからね!」
相手が上司であるにも関わらず、阪本は堂々と逆らった。
次第に自分から注目が逸れていくのを感じ、冴島美嘉は内心、ホッと胸を撫で下ろした。なぜ、こうも姿勢を保ち続けていられるのか、その秘密だけは断じて社内の人間に知られてはならない。
不倫相手の副部長が大のSM好きで、決して脱いだところを見せないスーツの下では、常に緊縛の一種、菱縄縛りを強要されているからだなんて、たとえ口が裂けても言えようはずがなかった。
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