「はあ〜っ……」
オレはトイレの個室でため息をついた。今は授業中なので、ここには誰もいないはず。それをいいことに、オレはもう一回、深くため息をついた。
春から通い始めた高校が退屈で、もう何度、こうやって授業をサボったことか。当初、いつものように保健室へ避難しようと思ったのだが、生憎と先客がいて、ひとつしかないベッドを占有していた。どうせオレと同様、仮病を装って昼寝しようと企んだ不届き者だろう。その証拠に頭まで被った布団の中からは音楽がシャカシャカと洩れ聞こえていた。
このまま校内をうろつくわけにもいかず、こうして男子トイレの個室に落ち着くことにした。今の授業が終わったら、教室へ鞄を取りに戻り、早退してしまおう。帰ったらゲームの続きでもして、ボス攻略のためレベルアップに勤しむ方が、オレにとっては有意義な過ごし方だ。
オレがこんな風になったのも、校内に一人も友人がいないからだろう。別にクラスの連中から無視されたり、仲間外れにされているわけではない。他人との関わり合いを避けたがる自身の気質によるものだ。
昔から、現実の世界が妙に作り物めいているようにオレには感じられた。本来、自分がいるべきではない世界――とでも説明すればいいだろうか。それよりも、むしろアニメやゲームといった創作上の物語に魅了され、自分がその中で活躍する姿をよく夢想した。
けれども現実は残酷だ。毎日、社会常識とやらに雁字搦めにされ、それから逃れようとすれば周囲の人間から変な目で見られてしまう。この世界に生まれ落ちたがために、不自由さに支配され、心は擦り減っていくばかり。かと言って、世を儚んで自死を選択するような度胸もなく、無為な毎日をひたすらやり過ごす。
あとどれくらいで授業が終わるだろうと時間を確認すると、まだ残り二十分あった。便意を催してもいないのにトイレに籠ることに飽き始める。どうせなら鞄を置いたまま帰ってしまおうか。
そのとき――
『だ……れ……、誰か……聞こえるか……? ……誰か……助けて欲しい』
不意に誰かの声がして、オレは耳を澄ました。まるで通信状態の良くない無線から聞こえて来るかのようだ。オレの他にもトイレに誰かいたのだろうか。まったく気配を感じなかったが。
『誰か……私の声が聞こえる者……はいないか……?』
「あ……はい、聞こえますけど」
応えるつもりではなかったのに、自分でも知らない間にオレは返事をしていた。
すると、向こうにもオレの声が聞こえたのか、
『おお、そなたには私の声が聞こえるのか? これは有難い! どうか助けてもらえないだろうか!』
さっきよりも声がハッキリと聞こえるようになった気がする。それよりも気になったのは、若い男の声のはずなのに何だか喋り方が大仰に思えたことだ。相手に対して「そなた」なんて。今時、時代劇とかでしか聞かないだろう。
「えーと、どなたですか?」
校内の人間とは思えず、オレは問い質した。
『私か? 私はアトラス』
「あ、アトラス? えっ、外国人!?」
その割には流暢な日本語だ。
『ヴァルラント王国の第一王子だ』
「ハァァァッ!?」
そんな国の名前、ファンタジー世界の中でくらいしか聞いたことがない。こちらをからかっているのか。
「あのー、意味が分からないんですけど……」
『私は今、危機に瀕している。この窮地を救ってもらうべく、ここより異なる世界にいるそなたに呼び掛けておる』
「こ、異なる世界って……?」
ファンタジーRPGばかりやっているオレにとって馴染み深い言葉が出てきた。つまり、これは異世界転生ものの王道的展開……いや、オレはまだ死んでないから、厳密には転生ではないけど。
『どうか、この呼びかけに応じて、こちらの世界へ来て欲しい。今すぐ私の窮地を救ってくれ』
「オレが “救世主” として、そちらの世界に赴くってことか?」
『そうだ』
そのとき、オレの脳裏に浮かんだのは、見たこともない異世界で数多の冒険を繰り広げる自分の姿だった。
オレは頬を緩ませ、身体を武者震いさせた。まさか、こんなことが現実に起きようとは。
こちらの世界では誰からも見向きすらされない凡庸な人間、それがアトラス王子の世界へ行けば救世主として誰からも崇め奉られる存在になれるというのか。
まさしくオレが夢見ていた理想の人生。オレは生まれて初めて高揚し、かつてないほどの昂りを覚えた。
「分かりました! オレなんかで良ければ、喜んで力をお貸しします!」
すっかりオレもその気になり、アトラス王子の言葉に力拳を握った。今いる世界になど未練はない。オレは異世界で名を挙げ、救国の英雄になるのだ。
『それは有難い。礼を述べる。そうだ、そなたの名は?』
「吾妻士郎……あ、違った。シロー・アズマです」
『ではシロー、早速だが目を瞑ってくれ。今からそなたをこちらに呼び寄せる』
「呼び寄せる? どうやって?」
『私には生まれながらにして王族特有の魔力があり、そういうことが可能なのだ。ただし、召喚できるのは私の声に応じてくれた者に限られる。だから今回、私の発するSOSが届くかどうか、必ずしも成功するとは限らなかった』
「へえー」
オレとアトラス王子には、何か不思議な絆でもあるのだろうか。ふと、そんなことが頭に浮かんだ。
『では参るぞ』
オレは言われた通りに目を閉じた。すると、たちまち周囲に変化が生じてきているのを肌で感じる。瞼を開けるわけにはいかないので具体的に何がどうとは言えないが、尻を冷やしていた便座の硬さもいつの間にか消えていた。
空気がガラッと変わった。もうここは学校の男子トイレなどではない。糞尿の臭いを誤魔化す消臭剤ではなく、もっとエレガンスな香水の匂いが鼻腔をくすぐる。
「シロー、召喚成功だ」
初めてアトラス王子の肉声を耳にし、オレは恐る恐る目を開けてみた。途端に豪勢な一室の光景が目に飛び込んでくる。壁も床もきれいに磨き上げられた大理石で出来ているし、贅を尽くした装飾品が室内にあちこちにあり、住まう者のステータスを爆上げしてくれているではないか。
でも――
「アトラス王子……?」
肝心の王子の姿がなかった。周りをキョロキョロしてみるが、豪華な部屋の中にはオレ一人だけ。さっき近くで声がしたはずなのに。
「シロー、こっちだ」
オレが不審に思っていると、すぐ目の前にある扉から声がした。どうやらアトラス王子はこの扉の向こうにいるらしい。
そのとき、オレはこの部屋の造りそのものに違和感を持った。
「待っていたぞ、救世主。切羽詰まって飛び込んだまでは良かったが、紙を切らしていたのに気づかなくてな。このままでは出られないところだったのだ。悪いが何処かで紙を調達して来てくれぬか」
「オレを呼んだのは尻を拭くトイレットペーパーのためかよッ!?」
そう、ここは王子の居室などではなく、贅沢な造りでこしらえた王族専用のトイレだったのだ。
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