[RED文庫] [「勇者ラディウス」TOP] [新・読書感想文] [次頁→]
「キャ〜ッ! あ〜れ〜ぇ!」
白昼に絹を裂くような女の悲鳴。――もっとも、それは切迫感よりも、いささか芝居じみた感は否めなかったが。
しかし、事態は深刻であった。街中で起きた突発的な事件は、そこに遭遇した者たちを慌てさせるに充分なものだったのだ。
何かに驚いたのか、狂ったように頭を振りたてた馬が買い物客で賑わう市場通りを暴走。その進行方向にいた通行人や露天商たちは、ひかれてはたまらないと、取るものもとりあえず、三々五々に逃げ惑った。
さらに悪いことに、馬の後ろには小さな馬車がつながれていて、そこには幼い顔立ちの残る少女がただ一人乗っていた。先ほどの悲鳴は、この少女のものだ。
「く、クリス様ぁ!」
その少女は名家の令嬢なのか、執事らしき身なりの老人が、手にしていた紙袋を放り出して、なんとか馬車に追いすがろうとした。落ちた紙袋からはマリード産のオレンジが転がり出る。おそらく、これを買っている間に停めてあった馬車が暴走したのだろう。だが、老人の足では馬車に追いつくことは不可能だった。
それまでのどかな昼下がりだったラーズ南の市場通りは、一転してパニックに陥った。馬の扱いに慣れた者が、その行く手に立ちふさがって止めようとするが、馬は突進をやめようとはせず、間一髪、命からがら脇へ飛ぶようにして避けるのがオチだ。また、ある者は手放された手綱をつかもうと試みるが、もう少しのところで失敗し、ほぞを噛む。
暴走した馬車は馬が右へ左へと激しく動くたびに、市場を賑わせていた露店にぶつかった。果物や魚といった食料品が辺りにぶちまけられ、こぼれた酒や油がむせかえるような臭いをところかまわず振りまく。市場はたった一頭の暴れ馬のせいでメチャクチャになった。
もちろん、中に乗っている少女もただでは済まない。馬車の中で小さな体は翻弄され、あちこちに肩や頭を打ちつける。この状態で悲鳴をあげたら、舌を噛んでしまいそうだ。
「だ、誰か、あの馬車を止めてくだされぇ!」
執事が悲痛な声で助けを求めた。
そこへ、この騒ぎを聞きつけて、何事かと見に来たらしい一人の青年が、ふらりと通りに現れた。運の悪いことに、その青年に向って、馬車は猛然と突っ込む。
「アンタぁ、危ないよ!」
近くにいた露天商のおばちゃんが逃げるよう大声を張り上げた。しかし、青年はただ表をあげただけ。目の前の暴走馬車を見ても、別段、慌てる素振りも見せない。
あまりの突然なことに事態を把握できないのか、と居合わせた誰もが思った刹那だった。青年はブリトン王国のコロシアムで有名な闘牛士のごとき華麗な動きを見せ、馬との衝突を寸前のところで回避してみせる。
「おおっ!」
人々から感嘆のどよめきが起こった。そればかりか――
「あっ!」
ひと息もつかぬ間に、唖然とする声があちこちから漏れる。避けたと見えた青年が、その身軽さを披露するかのように、ひらりと馬の背に飛び乗ったのだ。
ヒヒィィィィィィン!
急に背中へ乗られた馬は、無論のこと、通りがかりの青年を振り落とそうとした。しかし、青年は手綱も持っていないのに、巧みに身体のバランスだけで御してしまう。その唇にはほころびさえ浮かんでいた。
「どうどう、どうどどう!」
青年はムチのように馬の体を叩いていた手綱をつかむと、それを引き絞った。それまで暴れていた馬が不思議なほど大人しくなる。馬はチャカチャカさせていた脚を止め、鼻から思い切り息を吐き出すと、落ち着きを取り戻した。
「よーしよし、いい子だ」
青年は二回、馬の首筋をポンポンと叩くと、愛おしむようにたてがみを撫でてやる。まるで馬と会話できるようだった。
「あわわわわっ、クリス様!」
ようやくのことで停まった馬車にたどり着いた執事が息せき切ってドアを開けた。中には少女がぐったりとしている。だが、幸いにも大きなケガや気絶にまでは至っていないようだった。
「ジィ……」
少女が弱々しく口を開いた。執事は涙を浮かべながら、少女を抱きかかえるようして、馬車から連れ出す。
「申し訳ございませんでした、クリス様! このジィがクリス様のおそばを離れたばっかりに……旦那様に何とお詫びしてよいものやら……」
執事は心底から悔いているようだった。
そんな様子をチラリと見ながら、青年は馬から降りた。
「大丈夫かい、その娘?」
青年は少女と執事に声をかけた。すると執事は少女を抱えたまま立ち上がり、青年に深々と頭を下げる。
「よくぞ危険も顧みず、クリス様を助けてくださいました。このジィ、ロイヤル侯ミハイロフ様に代わって、お礼を申しあげますぞ」
執事は感謝の意を表した。青年は困ったような顔をする。こういうのは柄じゃないとでも言うように。
「いや、その、とにかく無事でよかったじゃないですか。この娘も、市場の人たちも無事のようで」
青年は及び腰になっていた。すぐにでも逃げ出したいといった感じだ。しかし、周囲には騒ぎに巻き込まれた人々が集まってきて、そういうわけにもいかなくなる。
「おお、よくやった! よくやった!」
と、青年の活躍に感銘を受けた親父が、拍手して賞賛すれば、
「あとオレが十年若かったら、あんな小僧に出し抜かれなかったんだが」
と、本気とも冗談ともつかぬ口調で悔しがる輩もいる。おばちゃんたちの中には、どさくさにまぎれて青年の身体に触ってくる者もいた。これには青年も辟易し、その場から立ち去ろうとしたが、そこに執事が立ちふさがる。
「失礼ながら、お名前をお聞かせ願いたい。クリス様を助けてくださった礼をぜひともさせていただかねば」
「いや、オレは別にそういうつもりで助けたわけじゃないから……」
青年は後ずさった。すると執事は目ざとく青年の腰のものに気づく。
「おお、その剣は!? どこぞ、名のある剣士様ですかな?」
「剣士?」
執事の言葉に、少女が初めて青年の方を見た。
その指摘どおり、青年は剣士の出で立ちをしていた。軽装の皮鎧を身につけ、腰には長剣<ロング・ソード>を下げている。それらはすべて青年にしっくり来ていた。
「勇者様……」
少女が夢見るように呟いたが、青年には聞こえなかった。なぜなら、そろそろ立ち去らないと、本当に面倒なことになりそうだと感じ始めたからだ。
「と、とにかく、礼とかはいらないから、気を使わないでくれ」
「そういうわけには参りません。そんなことをしたら、わたくしが旦那様に叱られてしまいます!」
執事は毅然と言い放った。長年、ロイヤル侯ミハイロフとやらに仕えているのだろう。主は絶対であると信じているタイプだ。
「いらないって、本人が言っているのに……」
青年はつくづく形式ばった貴族の儀礼にうんざりした。ここは早々に退散した方がよさそうだ。
青年はおもむろに背中を見せて、野次馬たちの中に逃げ込んだ。執事が引き留める間もない。
「あっ、お待ちくだされ!」
「ジィ、あの方を追うのです!」
幾分、元気を取り戻したらしい少女が執事に命じた。
「はっ」
執事は懸命に青年を追いかけようとした。しかし、青年は人込みを掻き分け、どんどん先に行ってしまう。それに対して、少女を抱えたまま、およそ体力もない執事が追いつけるわけがなかった。
とうとう執事と少女は青年を見失ってしまった。この広いラーズの街で探し出すのは、きっと骨が折れるだろう。
「ああ、行ってしまわれた……」
執事は落胆した。
一方、少女は、
「勇者様……」
と、何やらうっとりとした表情で、青年が消えた方向をずっと見つめていた。
[RED文庫] [「勇者ラディウス」TOP] [新・読書感想文] [次頁→]