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深夜、メリーはベッドから、そっと抜け出した。同室のアグネスを起こさないよう気をつけながら、用意していた着替えと靴を持ち、ドアから外へと出る。廊下はひっそりとしており、月から降り注ぐ冴え冴えとした明かりが床を照らしていた。
一階に下りるまで、メリーは裸足のままだった。彼女が寝起きしている二階から上の廊下や階段は古い板張りなので、靴を履いていると音がうるさい。修道院のみんなが寝静まった今の時間なら、なおさらのことだ。階段を下りきった一階は石畳になっており、ここからなら靴を履いても差し支えはなかった。
メリーはそこから渡り廊下を通って、修道院の寄宿舎に隣接している礼拝堂へ小走りで向かった。
このところ、メリーは夜中になると、こうして誰にも知られないように起き出し、礼拝堂で創造母神アイリスへの祈りを捧げているのだった。一週間ほど前に届いた実家からの手紙によると、父ネイサンの具合がよくないらしい。本当はすぐにでも飛んで帰りたいところなのだが、修道院に入ったからには、最低、三年の間は帰郷してはならないことになっている。これも修道女<シスター>になるための修行なのだ。だから仕方なく、父ネイサンの快気を信仰するアイリスに願い祈るしかないのだった。
メリーが修道院へ入ったのは、貧しい家庭事情のせいだった。彼女の家族は、カリーン王国の王都ラーズより遠く離れた寒村におり、実りの少ない農業を営んで、生計を立てている。母のルシーダはあまり丈夫ではなく、父のネイサン一人の働きで、六人の子供たちを育てているようなものだ。最も年長であるメリーは、そんな母の代わりとして、父を手伝い、弟妹たちを養う立場でなければいけないのだが、体質的に母ルシーダに似てしまったのか、虚弱で、あまり過酷な労働には向かない。そこで、せめて口減らしの役には立たないかと、こうして、はるばるラーズの修道院の門を叩いたのだ。
神への祈りは場所を選ばない。本当は自室で祈りを捧げてもよかったのだが、まだ十二歳のメリーにしてみれば、創造母神アイリスの神像が祀られた礼拝堂の方が、なんとなくこちらの声が届くような気がしてならなかった。メリーの教育係であるシスター・マチルダからは、神像はあくまでも象徴に過ぎず、真の信仰心さえあれば、神は常にそばにあり、その者の力となる、と説かれてはいるが、そこはやっぱり気持ちの問題だ。貧しいながらも、六人の子供たちを育ててきた父ネイサンには、残された弟妹たちのためにも元気になって欲しかった。自分もそのために修道院に入ったのだから。
とはいえ、いかな理由があろうとも、就寝時間に出歩くことは厳しく戒められている。誰かに見つかっては大変だ。修道女<シスター>の戒律は厳しく定められている。幸い、同室のアグネスは眠りの深いタイプなので、滅多に朝まで起きることはないが、他の誰かに見咎められる恐れは考えられた。行動には慎重の上に、慎重を期す必要がある。
そういえば、年長の修道女<シスター>から、以前、この修道院にも戒律を破るような猛者がいたと聞いたことがある。あれはシスター・ケイトからだったろうか。シスター・ケイトによると、その人物は夜な夜な修道院から抜け出し、ラーズの街に繰り出していたという。メリーはまだ修道院に入って一年目だし、その伝説の猛者もすでに放逐され、直接の面識はないのだが、修道女<シスター>といっても、みんなが信心深い、慎みを持った女性ではないのだな、とそのときは思ったものだ。
着替えを抱えたまま、礼拝堂に行きかけたメリーであったが、急に立ち止り、渡り廊下の柱に身を隠した。暗かったので、よく分からなかったが、礼拝堂の入口に誰かがいるような気がしたのだ。メリーはこちらが見つかったのではないかとビクつきながら、そっと様子を窺ってみた。
礼拝堂の入口には、確かに誰かがいた。その人物は、どうやらこちらに気づいた様子はないらしい。後ろ姿からすると、見慣れた修道衣を着た修道女<シスター>の誰かのようだ。ただ不思議なことに、手には明かりとなるものを何ひとつ持っていなかった。
(一体、何の用で礼拝堂に……?)
柱の陰に隠れながら、メリーは訝った。明かりを持っていないということは、あちらもメリーと同じように、誰かに気づかれないように用心しているのだろう。しかし、どうして真夜中に礼拝堂へ来る必要があるのか。
誰にも見られていないと周囲を確認したその修道女<シスター>は、正面の入口から礼拝堂の中へ身を滑り込ませた。そのとき、チラッとこちらに顔を向けたのだが、暗過ぎて、メリーには誰か分からない。
(どうしよう……)
メリーは迷った。今から中に入れば、先に入った修道女<シスター>と鉢合わせしてしまう。彼女が外へ出てくるのを待つにしても、果たして、どれほどの時間がかかるか分からない。一番いいのは、このまま自分の部屋に引き返すことだが、メリーはどうしてもそう動くことは出来なかった。
逆に危険だと思いながらも、メリーは礼拝堂に近づいた。柱から柱へ、素早く移動し、隠れながら。そうやってメリーは、礼拝堂の入口まで辿り着いてしまった。
大きく重たい入口の扉は閉まっていた。何か物音は聞こえないかと思い、耳を押し当ててみたが何も聞こえない。彼女は何をしているのだろうか。メリーはそっと扉を開けてみた。
礼拝堂の中は、創造母神アイリスの神像が祀られた祭壇に、唯一、灯されたロウソクがあり、おぼろげながら中の様子を窺うことは出来た。だが、メリーは注意深く覗いてみたものの、先に入ったはずの修道女<シスター>の姿が見えない。闇の濃いところに潜んでいるのかとも思ったが、そのようなこともなかった。
(………)
メリーは、目に見えない何かに招き寄せられるかのように、自分も礼拝堂の中に入った。足を踏み入れた途端、床板がギッと軋み、その音に思わず声をあげそうになる。礼拝堂の中は、寄宿舎と同じくらい古く、板張りのあちこちが傷んでいた。
そんなメリーの足音にも、返って来る反応はなかった。メリー以外、誰もいない伽藍堂だ。礼拝堂は、シンと静まり返っていた。
メリーは気味悪さを覚えた。間違いなく、修道女<シスター>の誰かが入ったはずなのに、中には誰もいないのだから無理もない。ひょっとして、自分が見た修道女<シスター>は、幽霊か何かだったのでは、とそんな恐ろしい思いに捉われる。
怖々ながら、メリーは正面奥に祀られた創造母神アイリスの神像へ近づいた。夜に限らず、常に薄暗い礼拝堂の中で、毎日、アイリスの神像を眺めているが、今ほど、どことなく不気味な翳のようなものが差しているような気がしたことはない。しかし、それは神への冒涜というものだろう。メリーはすぐにひざまずき、すべての母なるアイリスに許しを請うた。
そのとき――
メリーは違和感を覚えて、顔をあげた。アイリスの神像がいつもと違うような気がしたからだ。しばらくジッと見つめ、メリーは自分の違和感の原因を探ろうとした。
やがて、メリーは発見した。アイリスの神像がいつもと違うのではない。その女神の陰影が微かに動いているせいだったことを。
それは紛れもなく、神像を照らしているロウソクのせいだった。ロウソクの火がわずかながら揺れている。かなり古い礼拝堂だが、まだ隙間風が吹き込むほど老朽化してはいない。いつもは、こんなことはなかった。
メリーは手近な長椅子にずっと抱えていた着替えを置くと、どこから風が吹き込んでいるのか探ってみた。彼女が入って来た扉以外に出入口はない。窓はステンドグラスがはめられていて、開放は無理だ。そして無論、扉はちゃんと閉めてあった。
さらにアイリスの神像に近づくと、不意にメリーの前髪が揺れた。どうやら、風は神像の近くから吹き込んでいるらしい。
そんな微かな空気の流れを頼りに、メリーは祭壇の周りを回ってみた。壁に注意してみたが、やはり隙間や穴といったものは見つからない。祭壇の裏側はロウソクの光が届かないので、より慎重さが必要とされた。
ところが、壁にばかり気を取られていたせいで、メリーは失敗を犯した。ちょうど神像の真裏に差し掛かったとき、踏み出した足下の床がないことに気づかなかったのだ。自分の体勢が大きく崩れたときはもう遅い。メリーの身体は床の穴から下へ落ちた。
「――っ!」
悲鳴をあげる間もなかった。落ちた、と思った次の刹那には、右の腰と同じ方の背中を打ちつける衝撃が襲ってきたからだ。一瞬、メリーは自分の身に何が起きたのか理解できなかった。どうやら自分が地下へ落ちたと察し始めたのは、身体にじわじわと痛みが広がってからである。
高さはそれほどでもなかったのだろう。メリーは起きあがってみたが、どこかをケガしたということはなさそうだった。せいぜい、打ち身程度だろう。修業を積んだ修道女<シスター>は神の奇跡――聖魔術<ホーリー・マジック>を使って、傷を治癒することなど造作もないが、メリーはまだ一年目の修業中の身である。こんなところでケガを負ったら、大変なことになっていた。
といっても、そもそもここはどこなのか。何となく祭壇の下ということは分かるが、そんなものが礼拝堂の地下にあるとは教えられていない。
辺りは一切の明かりがない、暗闇に包まれていた。メリーは手探りで、どこかに上に登るための梯子や階段といった類がないか調べてみる。だが、暗闇の中での作業は、思いの外、はかどりもせず、恐怖ばかりが膨れ上がった。壁らしきものには触れたが、それ以外は何もない。次第にメリーは心細くなり、涙がこぼれた。
「誰か……誰か、助けてください!」
たまらず、メリーは助けを呼んだ。届くかどうかは分からない。それでもこんなところに閉じ込められるよりは不確かな可能性にかけた。
もしかすると、メリーよりも先に礼拝堂へ入った修道女<シスター>は、この穴の中に降りたのかもしれない。なぜ、そんなことをする必要があったのかは分からないが。とにかく、彼女がまだ近くにいれば、メリーは助けてもらえるかもしれないのだ。
「私はここです! ここにいます! 誰か、いませんか!?」
すると、まるでその声に応えるかのように、小さな明かりが暗闇の中に灯った。それはこちらへ近づいてきているらしい。メリーはそれにすがるように、さらに大きな声で呼んだ。
「私はメリーです! 祭壇の後ろからここへ落ちてしまったみたいなんです! お願いです、助けて!」
だが、小さな光は慌てることなく、ゆっくりと近づいてきた。メリーは、自分で自分の手を握りしめながら、それがこちらへ来るのを待つ。やがて、近づく光はロウソクやランタンの明かりではなく、空中に漂った青白い発光体だと分かった。
発光体の正体は光の精霊<ウィル・オー・ウィスプ>だった。それと共に現れた人物の顔が仄かに闇に浮かび上がる。それはメリーがよく知っている修道女<シスター>の顔だった。
「ああ、神様……助かりました。私、迷ってしまって……」
「メリーかい? 可哀そうな娘……なんて不運な娘なんだろう……」
「あ、あの……? おっしゃっている意味が分かりませんが……?」
「この地下の存在を知られてしまったからには、もう、お前を帰すわけにはいかないってことよ」
「えっ!? そ、そんな……なぜですか……!?」
メリーは恐怖に顔が引きつった。助かったと思いきや、その人物が告げた意外な言葉。よく知っているはずの修道女<シスター>が、なぜか、まるで別人のように思えた。
修道女<シスター>はニヤリと笑った。
「なぜって……お前が知る必要はない。永遠に、ね」
メリーは、殺される、と思った。文字通り、闇雲に背を向けて逃げようとする。しかし、修道女<シスター>は慌てなかった。
「逃がさないよ。――ディロ!」
浮かんでいた光の精霊<ウィル・オー・ウィスプ>が、呪文によって光の矢――マジック・ミサイルへと変じた。それはメリーの背中を撃つ。メリーは先程の転落など比べものにならないほどの凄まじい衝撃を受け、前のめりに倒れた。
「可哀そうにねえ、メリー。本当に可哀そうに……」
憐れみなど少しも感じていないかのような口調で修道女<シスター>は呟いた。
「た、助けて……」
息も出来ないくらいの痛みに喘ぎながら、メリーは暗闇の中で懇願した。
それはある夜の出来事だった。
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