「工藤、一杯つきあえ!」
今日の稽古が終わって帰ろうとした私に、劇団の座長である根津が声をかけてきた。この髭面の大男、無類の酒好きである。私は何と言って断ろうかと考えたが、互いに付き合いが古い。根津はポーンと私の肩を叩いてきた。
「今日はバイト、ないんだろ?」
私の予定などとっくにお見通しというわけだ。私は苦笑いをして見せるしかなかった。
私、工藤泰典は、《ウォーロック》という小さな劇団に所属していた。学生時代、友人に誘われて、何気なく演劇の世界に足を踏み入れたが、三十六歳になる今も続けていることに少なからず戸惑いを覚える。その友人に誘われ、今の劇団に入団したが、テレビや映画に出られるわけでもなく、大劇場の舞台も経験したことがない。さらに今の劇団でも根津に次いでの古株ながら主役を演じることもなく、セリフの少ない端役ばかりだ。当然、役者だけで食っていくことは出来ず、昼間はレンタルビデオの店員、夜は警備員とアルバイトで生計を立てている状態である。私を演劇の世界に引き込んだ友人もそれが辛かったのか、一年で退団していった。幸い私は独身なので、誰かを養うこともなく、生活に不自由もないが、この歳になって定職にもつかずに食えない役者を続けるというのは、一般の人から見れば理解されないであろう。私にもなぜ続けているのか分からない。
「さあ、今夜は飲むぞ!」
パンパンパーンと手を叩いて、根津が他の劇団員たちも促す。皆、笑みが凍りついていた。
《ウォーロック》劇団員たちの行きつけと言えば、稽古場から歩いてすぐの所にある居酒屋《やっちゃ場》である。全国の地酒が集まっており、肴も安価で、根津のお気に入りだ。
バイトがある三人を除いて、《やっちゃ場》に八人の劇団員が集まった。店の奥にある座敷に陣取る。人数分の生ビールをとりあえず注文し、銘々、雑談に花を咲かせた。
私は誰と話すでもなく、つきだしをつまみながらぼんやりとする。その視線の先では根津が豪快に笑っていた。
最近観た芝居や映画の話をしながら五時間、アルコールに弱い劇団員の中にはすでに酔いつぶれた者もいて、場もシラけてきた。私はぼちぼち帰ろうかと、後ろに丸めておいた上着に手を伸ばした。そこへ見慣れぬ若い女性がやって来た。OLというよりは、女子大生くらいだろうか。ニットのセーターにロング・スカートと、化粧も服装もおとなしめだが、なかなかの美人である。心なしか表情が上気しているようだった。
「あの……」
女が意を決したように口を開いた。皆の視線が女に集まる。
「あの……劇団《ウォーロック》の工藤泰典さんですよね?」
女は私の方を見て言った。こんな風に声をかけられたことはない。
「はい、そうですが……」
そのとき、私はどんな顔で答えたのだろうか。女の顔がパッと輝く。
「やっぱり! 私、工藤さんのファンなんです!」
ファン? 私は自分の耳を疑った。《ウォーロック》に入団して十四年、そのような人間にお目にかかったことがない。
「は、はあ……」
我ながら間の抜けた受け答えだったと思う。だが、こんなときどうすればいいと言うのだ?
「ほう、アンタ、工藤のファンなのか?」
根津が面白そうに言う。他の連中は信じられないと言う顔つきだった。
「はい! 《ウォーロック》の公演にも何度か行ってます」
「ふ〜ん。普通、お嬢さんくらいの年齢だと、清水とか長谷川のファンてのが多いんだが……」
清水と長谷川とは、ウチの劇団でもホープの俳優で、他の劇団員に比べれば女性に人気がある。今も私の真向かいに座っており、私と私のファンと名乗る女の顔を交互に眺めていた。
「まあ、せっかくだ。工藤の隣に座んなよ」
半分は面白がっているのだろう、根津が女に勧めた。
「いいんですか? 失礼します」
女はブーツを脱ぐと、座敷に上がり込んできた。躊躇せず、私の隣に座る。女はウーロン茶を注文し、私にお酌をしてくれた。
間近に座った女を改めて見ると、ドキッとするくらいの可憐さに驚いた。艶やかなセミロングの黒髪から鼻孔をくすぐる香りが漂い、私に久しぶりの異性を感じさせる。
「どうしました?」
思わず見とれていたのだろう。私は慌てて、何かを喋ろうと考えた。
「え、えーと、お名前は?」
「川瀬奈緒子です」
「今は何を?」
「はい、R大学の四年生です」
「じゃあ、今は就職活動で大変な時期でしょう」
「ええ、まあ」
「まったく、何を固っ苦しい会話をしてんだ? もう、ちょっと弾んだ会話ってものはねーのか?」
横から根津がチャチャを入れてくる。奈緒子がクスッと笑った。
「私は構いません。なんか、工藤さんっぽくて」
「はあ……」
私は頭を掻くしかなかった。ファンだと言う人間に、どう接していいのか分からない。私は、つい疑問を口にした。
「さっき、ウチの芝居を観てくれていると言ったよね? 当然、私の芝居も観ているんでしょう?」
「はい」
「だったら、どうして私のファンになろうなんて考えたの? 私は自分で言うのも何だけど、さえない男だし、主役を演じたこともなければ、セリフだって数えるほどしか喋っていない」
「おい、それは団長であるオレへの当てつけか?」
また根津が割って入ってくる。
「違いますよ。こんなパッとしない男に惹かれるものって、何なのかなって……」
奈緒子は少しの間、視線を落としていたが、やがて顔を上げると真っ直ぐに私の顔を見つめた。その真摯な瞳にハッとする。
「工藤さんからだって、ちゃんと伝わってくるものがあります。役がどうだとか、セリフがどうだとかじゃありません。その芝居に工藤さんは欠かせない存在なんです。控えめで、決して目立つことはないけど、それは芝居のバランスを崩さないために大切なこと。みんなが自己主張をしたら芝居が壊れてしまうと私は思うんです。その点、工藤さんは芝居全体のことを考えながら演技をしている。だから素敵なんです」
「芝居のバランスねえ……」
根津が面白くなさそうに呟く。
「そんなこと、自分では意識した事なんてないけど……」
だが、そう言われて悪い気はしない。
「工藤さんは意識しなくたって、自然にやれるんです。そこが凄いんですよ。もっと自分に自信を持ってください」
奈緒子は私の手をギュッと握ってきた。