翌日、昼間のバイトを終えた私は上機嫌で芝居の稽古場へやって来た。入口で顔を合わせた長谷川が失礼にも吹き出す。
「何だ?」
「いや、すみません。工藤さん、鼻歌なんか歌って入ってくるもんだから、つい……」
そう言われて、初めて鼻歌を歌っていたことに気づき、私は赤面した。
「そ、そうか……。自分では意識してなかったんだけど」
「夕べの彼女が原因なんでしょ?」
長谷川が遠慮なく突っ込んでくる。
夕べ、あれからしばらく《やっちゃ場》で飲みながら、奈緒子と談笑した。彼女は《ウォーロック》意外にも色々な芝居を観ているようで、あれこれと自分なりの演劇論を語ってくれた。私などは他人の芝居を観る余裕は時間的にないので、奈緒子が聞かせてくれる話の数々を楽しく聞いていられた。もちろん、私のファンだと言ってくれた奈緒子に対して好意を持っていたことも多分にあるだろうが。
「まあ、その話はいいじゃないか」
私は照れ臭そうに話を打ち切り、稽古場へ行こうとした。
「そう言えば彼女、さっきからいますよ」
長谷川の言葉に私は足を止めた。そして振り返る。
「誰が?」
「今話していた彼女ですよ、工藤さんのファンという。川瀬さん、でしたっけ? 根津さんのとこにいますよ」
「何の用なんだ?」
「さあ、そこまでは分かりませんけど。でも、最初から根津さんに用があるようでした」
「根津さんに?」
私は不審な顔つきを長谷川に見せながら、二階にある座長室へと向かった。
座長室の前まで来ると、中から話し声が聞こえてきた。男の声と女の声。根津と奈緒子のものだ。私はドアの前で聞き耳を立ててみた。
「……根津さん、率直にお伺いしたいのですが、どうでしたか?」
「ふむ。まあ、合格点じゃないかなぁ」
「そうですか、ありがとうございます」
「なかなかの熱演でしたよ。当人はもちろん、他のみんなもキミが工藤のファンだと信じたようだ」
「ホントに難題を出されるんですもの。正直、難しかったです」
「それを見事にこなしたんだ。自信を持ってもいいんじゃないかな?」
「こんな入団テスト、聞いたことがありません」
「キミの演技力を見るには、いいテストだと思ったんだけどね」
私は思わず、座長室のドアを勢いよく開けた。室内の二人が同時にこちらを向く。私は肩を怒らせ、握った拳を震わせた。
「ど、どういうことなんですか!?」
顔面が紅潮しているのが分かった。
根津が腰を浮かせる。
「工藤、これはな……」
「根津さん、ひどいじゃないですか! 人をなんだと思っているんです!?」
「落ち着け、工藤。何もお前を面白がって騙したワケじゃない」
「じゃあ、何だと言うんです!? 根津さんとこの女で私を引っかけて、面白がっていたんだ! そりゃ、私にはファンなんていないかも知れない! でも、それをバカにされる覚えはありませんよ!」
私は一気にまくし立てた。そして、近くにあった観葉植物の植木鉢を蹴り倒す。派手な音がして、鉢の土が床にぶちまけられた。私の暴挙に、さすがの奈緒子も青ざめる。
「最初からおかしいとは思っていたんだ! アンタみたいな人が私のファンだなんてね! アンタも心の底じゃ、私のことを笑っていたんだろ? 売れない役者が数少ないファンに感激した様子を見て! 少しは何とか言ってみたらどうなんだ!?」
奈緒子は私に視線を向けたまま、キッと唇を結び、立ち上がった。
「じゃあ、言わせてもらいますけど、私は根津さんの言う通り、あなたのファンを演じました。それが《ウォーロック》の入団テストだと言われたからです。あなたを嘲笑おうだとか、あなたをおとしめようとか、そんなことは考えていません。演じただけです。でも失礼ながら、あなたは私の演技を見抜けませんでした。プロの役者であるあなたがです。同業者なら、その人が真実を言っているのか、演技をしているのか、見抜くべきだと思います! 残念ですが、あなたにはその力がなかった。ということは、あなたにはプロの役者としての資質が──」
「黙れ、黙れ! そんな自分を正当化するようなことを言いやがって! 認めないぞ! そんな役者の資質なんて、私は認めない!」
私は涙を流しながら大声を張り上げた。奈緒子はそんな私に悲しげな視線を投げてくる。まるで「かわいそうな人」とでも言いたげに。
私はいたたまれず、ワケの分からないことを叫びながら部屋を飛び出していった。
私が飛び出していったあと、座長室には根津と奈緒子が残った。
根津が脱力したようにソファに座り込む。
「すまんね、嫌な思いをさせてしまって」
「いえ。……でも」
「ん?」
根津はポケットからタバコを取り出しながら、立ったままの奈緒子を見上げた。
「良かったんでしょうか、私……」
呟くように言い、奈緒子も向かい合わせに座った。
根津はすぐには答えず、ライターでタバコに火をつけ、ゆっくりと紫煙を吐き出した。
「いいんじゃないの? キミも言ってたじゃない、同じ役者なら、それが演技かどうか見抜くべきだ、と。工藤にはそれだけの力がなかった。それだけのことさ」
「でも……」
奈緒子はしばらく視線を下に落としたまま何やら考えている様子だったが、やがて意を決したように顔を上げた。
「やっぱり、工藤さんを追い出してまで、役者になりたいとは思いません」
「どうして?」
「工藤さんの言う通り、私は演技をすることによって他人を騙すことを正当化していたのかも知れません。でも、それは騙された人にしてみれば許せないことでしょう。私は演技で観客に夢とか希望とかを与えたい──いえ、そんなおこがましいものじゃなく、そういうものを感じてもらえればいいと思っています。逆に私の演技で誰かが不幸になるというのは、あってはならないと思うんです」
「それはウチに入団するのをあきらめるってことかい?」
「はい。残念ですけど」
「そうか……」
根津は頭をかきむしるようにして、大きく息をついた。
「それでは失礼します。工藤さんには根津さんの方から謝っておいてください」
奈緒子は立ち上がって一礼すると、退室していった。