「お先に失礼します」
時計の針が定時の夕方五時を指し示した瞬間に、野崎昭平は鞄を持って職場の同僚たちに挨拶した。
誰もまだ──それこそ女子社員でさえ仕事をしているというのに、いくら定時とは言え、さっさと帰宅しようなどと言うのは、皆の冷たい視線を集めたが、それを露骨に口にする者はいなかった。野崎は五十近くになる万年係長で、普段の仕事ぶりも冴えない。まだ、リストラされていない方が不思議なくらいで、そんな野崎の仕事に対する姿勢を誰もが知っているし、そんなことを咎めて、もめ事を起こしても自分たちの不利益になることは分かり切っていたので、ただ黙って自分の片づけるべき仕事をこなすだけだ。
野崎は退室間際にチラリと同僚たちを振り返ったが、早足にエレベーター・ホールへ急いだ。
会社を出ると、野崎の足は鈍った。定時で退社したものの、特に急用があるわけではなかった。ただ、仕事場の居づらい雰囲気から逃れたい。その一心だった。
野崎は多額の借金を抱えていた。友人が会社を興した際、その保証人になったのだ。いずれは自分もその会社の重役になるつもりだった。
だが、友人の会社はわずか半年で倒産。しかも多額の借金を残したまま行方不明になり、保証人だった野崎が全額を負担することになってしまった。その額五千万円。
数年前に念願のマイホームを構え、そのローンも残っているこの時期、野崎にはおいそれと払える額ではなかった。
会社には退職金の前借りを頼んだが、あっさりと断られた。むしろリストラを進めている会社に、その口実を与えてしまったようなものだ。そう遠くないうちにクビを切られるだろう。同僚たちはすでにその話を知っているのだ。
とりあえず石川県にある実家の土地を売って、借金を返すことにした。長年住んでいた母には申し訳なかったが、背に腹は代えられぬ。それでもまだ利子の分が残っていた。
野崎は自分の人生がすでに終わってしまったような脱力感を覚えていた。本来なら残業でも何でもして、返済するべきなのだろう。だが、これからはただ借金を返すためだけに働かなくてはいけないかと思うと、いっそのこと自殺でもしようかという気になってくる。二人いる息子たちはすでに社会に出て働いているし、これ以上、扶養する必要はない。妻のみさ江だって、夫がいなくなってもちゃんと独りで生きていけるだろう。もはや、自分の存在価値などないように思える。
とりあえず駅への道を辿りながら、野崎はどうやって死のうかと考えていた。
考え事をしていたせいで、野崎は前から走ってきた男性と肩をぶつけてしまった。勢いに負けて、野崎は尻から倒れてしまう。男は野崎の足にもつまずいたせいで、もっと派手に転倒した。
「す、すみません! 大丈夫ですか?」
顔を歪めながら野崎はぶつかった男に言った。男の鞄は五メートルも吹っ飛んでおり、転倒した男はなかなか起きあがれなかった。
野崎はどこか打ち所が悪かったかと、男の元へ近づいた。
「ケガはありませんか?」
野崎よりも一回り年下と見える男は、顔をしかめながら右ヒザ辺りを押さえていた。ズボンの布地に黒っぽい染みが広がる。血だ。
「あっ、すみません、私の不注意で」
野崎は謝罪しながら、ポケットからハンカチを取りだした。男は丁寧にそれを断る。
「大丈夫です、大したことありませんから……」
それでも表情は正直だ。苦痛に歯を食いしばっている。
男はなんとか立ち上がったが、びっこを引くような状態だった。
「どこかにお急ぎだったのではないですか?」
走ってきた男の様子を思い出して野崎が尋ねてみる。男はチラリと腕時計を見て、天を仰いだ。このままでは間に合わないと思ったのだろう。
野崎は決心した。
「私がタクシーでお送りしますよ」
男はちょっと驚いた。
「いえ、そこまでして頂かなくても……」
「せめてそれくらいのことをさせてください。大事な用事なのでしょう?」
男はどう断ろうかと思案するような仕草を見せたが、野崎は構わずに肩を貸し、手を挙げてタクシーを呼び止めた。まず男を乗り込ませ、自分も乗り込む。
「どちらまで?」
運転手が訊いてきた。
野崎が男の顔を見る。
初め男は言うのをためらっていたが、やがて、
「K小学校まで」
と告げた。