夕方の今頃、小学校に急がねばならないこととは何だろう? 野崎に素朴な疑問が浮かんだ。男は教師なのだろうか。一見、サラリーマン風に見えるが、教師に見えなくもない。緊急の職員会議でもあるのだろうか。
野崎はふと尋ねてみたくなった。
「失礼ですが、学校の先生か何かで?」
「いえ」
「じゃあ、学校には何の用で行くんです?」
「授業参観です」
男の口から意外な言葉が出てきて、野崎は益々、分からなくなった。こんな暗くなってからの授業参観とは。夜間学校なのだろうか。
タクシーは渋滞に巻き込まれることもなく、約十分で目的地のK小学校に到着した。
先に料金を払った野崎が降り、そろりと下車する男に手を貸してやる。タクシーはそのまま走り去った。
二人の前には鉄筋コンクリートながらも、どこか古めかしい校舎が建っていた。校門は開け放たれ、校舎の全ての窓からも光が漏れていることから見ても、放課後と言うよりはこれから授業が始まるという感じだった。
男は野崎に向き直って言った。
「ありがとうございます。どうやら間に合ったようです」
「いや、私はちょっとした償いをさせていただいただけですから」
「せっかくですから、一緒に授業を受けてみませんか?」
男の言葉に、今度は野崎の方が驚いた。授業? 何の授業だ?
「そんな飛び入りで参加しちゃって大丈夫なものなんですか?」
「大丈夫ですよ。まだ席は埋まっていませんし」
「しかし、授業料とか……」
「心配いりません。タダですから」
「タダ?」
「小学校は義務教育ですから」
「はあ」
野崎は男の言っている意味が分からなかったが、付いて行ってみることにした。男に肩を貸しながら、校舎へと入る。
「そう言えば、まだお互い、名乗っていませんでしたね。私は野崎と言います」
「土屋です。よろしく」
三階まで上がると、「4−2」と札のかかった教室に野崎と土屋の二人は入った。すでに教室は大勢の生徒たちで埋まっていた。いや、生徒たちと言っていいものかどうか。皆、野崎か土屋くらいの年齢で、小学生らしい子供は一人もいなかった。また、女性の姿はなく、男性ばかりだ。
生徒たちの親の懇談なのだろうか。そうだとすると部外者である野崎は、ここにいてもいいのか悩んでくる。
「本当にいいんですか?」
野崎は念を押してみた。土屋は笑顔でうなずく。
「いいんですよ。そろそろ始まります」
土屋がそう言った途端だった。教室のスピーカーから予鈴のチャイムが聞こえてきた。野崎は数十年ぶりに聞いたその音を懐かしく感じ、教室の前側にあるドアを見つめた。
やがて、初老の男性が入ってきた。白髪にメガネ姿のその男性は、手に出席簿を持っているところを見ると教師らしかった。
その教師らしい男が教壇に立つと、前の方の席から号令がかかった。
「起立!」
ガタガタッと、イスに座っていた全員が立ち上がる。野崎もやや遅れて立ち上がった。
「礼!」
「おはよーございますっ!」
外はすっかり暗くなっている時間に「おはようございます」は妙だったが、皆、恥ずかしげもなく大声で挨拶した。まるで子供の頃に帰ったかのように。
「着席!」
全員が座ると、教師らしい男は出席簿を開いた。メガネのズレを直しながら、
「阿部くん」
「はい!」
「上村くん」
「はい!」
と名前を呼んでいく。呼ばれた者は返事を返した。まるっきり学校のホームルームだ。
「どうなってるんです、これは?」
野崎は思わず隣の土屋に訊いた。土屋はニヤリとして、
「出席を取っているんですよ」
と、こともなげに言った。
出席? では、本当に授業が始まるとでも言うのだろうか。
野崎は先程、土屋が言っていた「授業参観」という言葉を思い出していた。すると……。
「土屋くん」
「はい!」
土屋が呼ばれて、手を挙げた。小学生になりきっているかのようだ。
続けて教師が名前を呼んだ。
「野崎くん」
野崎は自分の名前が呼ばれてビックリしたが、すぐには手を挙げなかった。誰か同姓の人物が教室内にいるのかも知れない。なにしろ、自分は飛び入りで参加したのだから。
だが、野崎の他に返事をする者はいなかった。
「野崎くん? 野崎くんはいないのかな?」
教師は教室を見回しながら再び名前を呼んだ。まさか、自分のことを呼んでいるのか?
隣の土屋が肘でつついてきた。
「ほら、呼んでいますよ」
「私?」
「他にいますか?」
「いや、だって……」
どうやってあの教師は野崎が飛び入り参加したと知ったのだろう。これは一体……。
「野崎くん!」
しびれを切らしたのか、教師が一オクターブ高い声で名前を呼んだ。
「はい!」
野崎は思わず反射的に手を挙げ、返事をしてしまった。
教師はようやく出席簿にチェックを入れられることに満足な表情を見せながら、次の名前を呼んでいく。